ライダーウェイト・タロット解説

CLASS I
§2 TRUMPS MAJOR
Otherwise, Greater Arcana
大アルカナ


 この章では、過去の大アルカナについて、色々と(ネガティブな)見解を述べています。
 まず最初に、昔のカードの欠点を挙げることで、オレの新しいデザインのタロットカード(ライダーウェイト版)はメチャメチャすごいよ!、ということを言いたいのだろうと思いますが、これは、現代の宣伝においても、良くあるパターンですよね。

 参考として、従来のマルセイユ版タロットの中では最も初期の、ジャン・ノブレ版の画像を、各解説文の前に添えておきます。
 マルセイユ版は、歴史的に古いのとコスト低減のために、黒一色の木版印刷の上に、型紙を使って手作業で色を塗って仕上げたものとなっており、シンプルなデザインとなっています。
 一方、ライダーウェイト版は、凹版の多色印刷なので、かなり細かい描写が可能となっていますよね。

 有名なマルセイユ版タロットについて、以下に紹介しておきます。それぞれの絵を比べて見ると、細かいデザインの相違だけでなく、人物の方向が左右逆とかいう割と大きな違いもありますので、面白いです。
 ・ジャン・ノブレ(Jean Noblet)版 (1650年頃にパリで発行)
 ・ジャック・ヴィーブル(Jacques Vieville)版 (1650年頃にパリで発行)
 ・ジャン・ドダル(Jean Dodal)版 (1701年頃にリヨンで発行)
 ・ニコラ・コンヴェル(Nicholas Conver)版 (1760年頃にマルセイユで発行)

 なお、マルセイユ版タロットという呼び名は、1930年頃に、フランスのカード会社であるGrimaud社で発売された「昔のマルセイユのタロット/Ancien Tarot de Marseille」のシリーズから、一般に広まりました。これはニコラ・コンヴェル版がベースとなっており、現在でもマルセイユ版として最も広く使われているパージョンのものです。
 ちなみに、ウェイト氏が、この本を書いた1910年頃は、タロットカードはマルセイユ版が多数派でしたので、わざわざ「マルセイユ版」といって区別する呼び方は、専門家の間だけだったみたいです。
 今では、ライダーウェイト版の方が多数派となっていますので、わざわざ「マルセイユ版」と呼ばなくてはならないようになったということですね。



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従来(マルセイユ版)の魔術師

 従来のものは、左手に魔法の杖、右手にコインを持ち、顔が左向きだったのが、ライダーウェイト版では右手に魔術杖、左手は大地(コインは大地の象徴)を指し、顔は右向きとなっています。あらゆるものが左右対称になっていることに注意が必要です。

1. The Magus, Magician, or juggler, the caster of the dice and mountebank, in the world of vulgar trickery.
1. 「魔術師」、「魔法使い」、または「手品師」。俗悪なペテンの世界にいる、サイコロを振る者とインチキ薬売り。

 ここは、従来解釈によるカードの絵柄の意味を羅列しています。
 いい意味から悪い意味(Magus > Magician > juggler)へと順に並べているような感じですね。
 「Magus/魔術師」というのは、『新約聖書:マタイによる福音書』に出てくる「東方の三博士」の意味を持ちます。
 「mountebank/インチキ薬売り」というのは、芸を見せて人を集めた後、その集まった人を騙してニセ薬を売っていた行商人みたいなものです。日本にも、怪しい健康食品とか漢方薬、健康グッズの行商人とか、色々といますよね。

This is the colportage interpretation, and it has the same correspondence with the real symbolical meaning that the use of the Tarot in fortune-telling has with its mystic construction according to the secret science of symbolism.
これは書籍行商の解釈であり、そしてそれは、占いのためのタロットの使用の真の象徴的な意味は、象徴主義の秘密の知識による神秘主義的な解釈に対応するのと同じような対応関係を持つ。

 最初からいきなり、皮肉を込めた、従来解釈の全否定です。(笑)
 「colportage/書籍行商」というのは、元々は宗教関連の庶民向けの書籍を行商するという、ちょっといかがわしげな商売のことです。
 そして、「colportage interpretation/書籍行商の解釈」というのは、従来の庶民向けのタロットの手引書では、いかがわしくて通俗的な解釈がされているため、そこには安っぽい意味しか書かれていないよ、ということですね。

 で、そういう安っぽい解釈ではなく、実はタロットの中には、真の象徴主義を知る者だけが見える、真の象徴主義の意味が隠されているよ、と言っているわけです。 

I should add that many independent students of the subject, following their own lights, have produced individual sequences of meaning in respect of the Trumps Major, and their lights are sometimes suggestive, but they are not the true lights.
私は、主題(タロット)について多くの独自の研究者が、次に述べる彼ら自身の観点で、大アルカナに関する意味の独自の系列を作成したことを言い足すべきである。そして、それらの観点は、時々思わせ振りであるが、それらは真の観点ではない。

 従来の通俗的解釈の全否定だけでなく、近年のタロット研究者の解釈まで全否定です。
 とことん従来解釈を嫌っていますよね。
 そして、ウェイト氏は、こんなストレートな書き方をするから、オカルトの仲間からは、距離を置かれる存在なんですよね…。

For example, Eliphas Levi says that the Magus signifies that unity which is the mother of numbers; others say that it is the Divine Unity; and one of the latest French commentators considers that in its general sense it is the will.
例えば、エリファス・レヴィは、「魔術師」は数の母体である統一体を意味すると言っている。 他のものは、それが「神の単一性」であると言っている。そして、最近のフランス人の解説者の一人は、一般的な意味で、それが意志であると考えている。

 この辺りは、1という数字の数秘術的解釈となっています。「Divine Unity/神の単一性」というのは、代表的な数秘術的解釈であり、多くの者がそういった解釈をしています。
 「latest French commentators/最近のフランス人の解説者」というのは、おそらくポール・クリスチャン氏のことです。
 そしてもちろん、こういった解釈は、全て間違っていると、ウェイト氏は仰っているわけですよ。(笑)



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従来(マルセイユ版)の高等女司祭

2. The High Priestess, the Pope Joan, or Female Pontiff; early expositors have sought to term this card the Mother, or Pope's Wife, which is opposed to the symbolism.
2. 「高等女司祭」、「女教皇ヨハンナ」、または「女性の教皇(大祭司)」。 昔の解説者は、このカードを「母」、または「教皇の夫人」と名付けることを試みたが、それは象徴的な意味で対立する。

 「Pope Joan/女教皇ヨハンナ」は、13世紀に書かれた伝説に出てくる女性教皇です。伝説ですので、その物語には色々なバージョンがあります。
 ちなみに、日本語においては、「教皇」と「法王」は、ほとんど同じような意味で使われますので、少なくともオカルト分野での使い分けは、あまり意識しなくてもいいです。
 なお、「Priestess/女司祭」とか「Priest/司祭」というのは、キリスト教に限った言葉ではなく、他の宗教でも、聖職者=宗教儀式を行う者として、普通に使われる言葉です。
 一方、「Pope/教皇」というのは、ほぼローマ教皇を指すものです。
 そして、「Pontiff/大祭司」は、「High Priest/司祭長」とほぼ同じような意味合いですが、一般にはローマ教皇を指すことが多いです。

 で、このカードの象徴は、「母」や「夫人」というような、肉体的なパートナーのある存在とか、「女性という性」を意味するものではなく、もっと高いレベルの意味を持っているよ、と言いたいわけです。

It is sometimes held to represent the Divine Law and the Gnosis, in which case the Priestess corresponds to the idea of the Shekinah.
これは時々、「神の法」と「グノーシス」を表すとも考えられているが、その場合、女司祭はシェキーナーの理念に対応する。

 「Gnosis/グノーシス」という言葉は、古代ギリシャにおいて、神秘主義的・経験的な知識や認識を指すもので、科学的・理論的な知識や認識とは別の領域のものです。
 この神秘主義的な思想は、紀元2〜3世紀頃にキリスト教と融和し、「キリスト教グノーシス派」という異端的な宗教団体がいくつか出来ました。かなり異端的でしたすので、当然のごとく当時の教会から迫害され壊滅させられましたが、その異端的密教思想は後に伝えられて、魔術や占いを含む、様々なオカルト思想に取り入れられています。

 あと、「Shekinah/シェキーナ」というのは、ざっくり言うと「神の化身」みたいなものです。詳しくは、PartU§2の「2:高等女司祭」ところで説明していますので、そちらを参考にしてください。

She is the Secret Tradition and the higher sense of the instituted Mysteries.
彼女は秘密の伝承であり、設けられた神秘的教義の、より高い感覚である。

 「Secret Tradition/秘密の伝承」というのは、明文化されず、それを理解できる限られた者だけにのみ伝えられる、秘密の教えです。
 そして、「the instituted Mysteries/設けられた神秘的教義」というのは、明文化され、確立された教義みたいなもので、彼女はその中における高次元の象徴的な存在ということですかね。

 ということは、この高等女司祭は、ウェイト氏が大好きなオカルト世界の理想と幻影のマドンナ像であるということは間違いなさそうですね。
 つまりウェイト氏は、高等女司祭が、萌え対象となるような絶世のロリ美少女として描かれていないことが、一番の不満なようです。(←嘘)



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従来(マルセイユ版)の女帝

3. The Empress, who is sometimes represented with full face, while her correspondence, the Emperor, is in profile.
3. 「女帝」。時々、彼女は正面から見た顔で描かれ、一方、彼女と対応関係にある「皇帝」は横顔である。

 マルセイユ版の皇帝は、完全に横顔となっており、他のカードの人物像がほぼ正面なので、ちょっと違った雰囲気があります。

As there has been some tendency to ascribe a symbolical significance to this distinction, it seems desirable to say that it carries no inner meaning.
象徴的な重要性を、この差違に帰する何らかの傾向があるので、それが内なる意味を伝えないと言うことは望ましいように見える。

 横顔しか見せない皇帝は、残りの横顔である「内なる意味」を隠しているが、女帝は顔をさらけ出して何も隠していないので、「内なる意味」を持っていないという主張です。
 でもまあ、こういうシチュエーションなら、よくありそうだけど。(笑)

 女帝:「あなた、昨日はどこで遊んでいたのよ!」
 皇帝:「いや、昨日は仕事でちょっと遅くなっただけだよ・・・」
 女帝:「何で横向いてるのよ!こっち向いて話しなさいよ!」

 隠し事をしていると、色々とあらぬ方向に意味を詮索されて、根も葉もないことを書き立てられてしまいそうです。(笑)

The Empress has been connected with the ideas of universal fecundity and in a general sense with activity.
「女帝」は、普遍的には生産力の観念、一般的な意味では活動力に関連している。

 現在完了形ですので、ウェイト氏はこういう考えには、ちょっと否定的なようです。
 つまりこの女帝のカードも、高等女司祭と同じように、肉体的・物質的な「母」や「夫人」や「おばちゃん」を意味するものではなく、実はもっと高いレベルの意味を持っているよ、と暗に言いたいわけですよね。(笑)



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従来(マルセイユ版)の皇帝

 上記のカードは、初期のマルセイユ版であるジャン・ノブレ版で、人物は右側を向いています。
 一方、後期のマルセイユ版であるジャン・ドダル版ニコラ・コンヴェル版では、左右が逆になっています。
 これに限らず、他のカードでも、左右の配置が異なるものがありますので、デザイン的もしくは象徴的な試行錯誤があったのでしょうかね。


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ジャン・ドダル版の皇帝

4. The Emperor, by imputation the spouse of the former.
4. 「皇帝」。転嫁による前者の配偶者。

 女帝と皇帝って、デザイン的には類似していますよね。このため、皇帝は女帝の夫であるという説がありました。
 ただし、「imputation/転嫁」というのはあまり良くない意味で使われるので、ウェイト氏は、皇帝は女帝の夫ではないと言いたいようです。
 ポジション的に見ても、実質支配者の女帝>建前的権力者の皇帝 となり、カカア天下の家庭となってしまいますからね。(笑)

He is occasionally represented as wearing, in addition to his personal insignia, the stars or ribbons of some order of chivalry.
彼は時折、彼の個人的な記章に加えて、騎士道のある階級の星やリボンを着用して描かれている。

 「personal insignia/個人的な記章」というのは、従来からある、皇帝として持つべき基本的な象徴です。それだけでなく、なんか皇帝とは無関係な妙なものまでゴテゴテと付けられている、と言っているわけですかね。
 やはり、この皇帝の持つ権力は、実権の無い見せかけなんですかね。(笑)

I mention this to shew that the cards are a medley of old and new emblems.
私は、これは、カードが古いものと新しいものの寓意画の寄せ集めであることを示していると、言及しておく。

 古いものは「ローマ皇帝」としてのシンボルで、新しいものは「騎士道」としてのシンボルですかね。
 ウェイト氏は、騎士道ネタは大好きですので、こんなところでシンボルを混用するのは我慢できないようです。

Those who insist upon the evidence of the one may deal, if they can, with the other.
一つの証拠を主張する者は、もし彼ができるのであれば、他を取扱うことができるかもしれない。

 私には出来なかったが、もし出来るヤツがいるのなら、オマエがやってみろ、という挑発的な感じです。
 要するに、きちんと象徴的な証拠に基づいて、一つ一つの象徴の意味を考えて組み立てられたカードではないようだ、と言いたいわけですよね。

No effectual argument for the antiquity of a particular design can be drawn from the fact that it incorporates old material; but there is also none which can be based on sporadic novelties, the intervention of which may signify only the unintelligent hand of an editor or of a late draughtsman.
個々のデザインの古さのための有効な論点は、それが古い素材を組み入れているという事実からは、引き出すことはできない。 しかし、散発的な新製品に基づかれたものでもないし、そういうものの介在は、最近の図案家の単なる無知な手の表れであろう。

 昔のデザイン素材が使われているからと言って、それ全体が昔にデザインされたものとは限らない、ということですね。
 おそらく、シンボルの本当の意味については詳しくないタロットカードのデザイナーが、見かけの派手さを狙って、勝手気ままに古そうでカッコイイ図案をあれこれと組み合わせて、次々とマイナーチェンジしたデザインのカードゲームを作っていったようなものです。
 でもまあ、使う方からすれば、カードの象徴の持つ深い意味なんて、割とどうでもいいことなんですけどね。

 そんなことより、デュエルしようぜ!! (笑)

 でも、そういう二番煎じ的なデザインというか見せかけだけのカードが氾濫している現状に、ウェイト氏は不満なわけですよ。
 ならば、オレが、今までに無かったような、昔からの神秘主義、新しい神秘主義、そして斬新なデザインに基づく、みんなが驚くほど画期的なニューデザインのタロットカードを作ってやろうじゃないか!と言いたいわけですね、わかります。



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従来(マルセイユ版)の法王

5. The High Priest or Hierophant, called also Spiritual Father, and more commonly and obviously the Pope.
5. 「司祭長」もしくは「法王」は、「精神的な父親」とも、そしてより一般には明らかに「教皇」とも呼ばれている。

 似たような意味の言葉が並んでいますので、整理しておきます。
 「Pope/教皇」は、一般的にはローマ教皇のことを指します。
 「Priest/司祭」は、一般的には宗教のプロである聖職者のことを指し、キリスト教においては司祭と呼ばれます。
 ちなみにカトリックでは、「deacon/助祭」<「priest/司祭」<「bishop/司教」<「pope/教皇」という位置付けがあります。
 で、「High Priest/司祭長」というのは、その指導者に当たる人ですね。
 「Hierophant/法王」は、古代エジプトや古代ギリシャでの秘教儀式を司る最高位の司祭のことで、キリスト教における教皇とほぼ同じ位置付けです。

 で、マルセイユ版では「pope/教皇」とはっきりと書かれていますが、ウェイト氏は、これが気に入らないようです。
 教皇って、あくまでも現世で実在している人間ですから、精神世界を取り扱うタロットの世界とは別次元の存在ですからね。

It seems even to have been named the Abbot, and then its correspondence, the High Priestess, was the Abbess or Mother of the Convent.
それは、「大修道院長」と命名されていたことさえあったようで、その時に対応する「高等女司祭」は、「女子大修道院長」あるいは「女子修道会長」であった。

 「Abbot/大修道院長」は、キリスト教における男子大修道院の院長を指します。
 「Abbess/女子大修道院長」は、キリスト教における女子大修道院の院長を指します。
 「Convent/女子修道会」は、キリスト教における女子の修道会を指し、「Mother of the Convent/女子修道会長」はその長の人を指します。
 修道会というのは、修道者が集まって作った組織のことで、その修道者が共同生活を行う施設が修道院ということですね。
 この命名については、ジェブラン氏の『原始の世界』の中に記述があります。

Both are arbitrary names.
両方とも恣意的な名前である。

 「大修道院長」と「女子大修道院長」という名前には、根拠がなく、勝手気ままに思いついたものであると言っているわけです。

The insignia of the figures are papal, and in such case the High Priestess is and can be only the Church, to whom Pope and priests are married by the spiritual rite of ordination.
人物の記章がローマ教皇であり、そのような場合には、「高等女司祭」は、「ローマ教皇」と司祭が叙階式の霊的な儀式により結婚される「教会」であり、そして唯一そうである。

 ローマ教皇や司祭は、原則的に結婚はできません。聖職者が生涯の愛を捧げる結婚相手は、「神」だけであるという建前になっていますからね。

I think, however, that in its primitive form this card did not represent the Roman Pontiff.
しかしながら、私は、その初期の形態においては、このカードは「ローマ教皇」を意味していなかったと思っている。

 まあ、精神世界の領域である大アルカナに、現実世界の人物を描くわけにはいきませんし、前章で述べたアルビ派の見地からすると、ローマ教皇は信仰の敵ですからね。
 そもそも、2次元の世界(バーチャル)に、3次元の世界(リアル)の住人の話を持ち出すのは、ヤボってものです。(笑)



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従来(マルセイユ版)の恋人たち

6. The Lovers or Marriage.
6. 「恋人たち」、もしくは「結婚」。

 今でこそ「The Lovers/恋人たち」と呼ばれていますが、昔は違った名前もあったんですよね。
 ちなみに「Marriage/結婚」というタイトルは、ジェブラン氏の『原始の世界』のものです。

This symbol has undergone many variations, as might be expected from its subject.
その主題(恋人たち)から予想できるように、この象徴は多くの変化を受けてきた。

 カードタイトルの「The Lovers/恋人たち」というのは、昔でも今でも、とても魅力のあるタイトルです。
 そのおかげで、色々とネタにされ、干渉や影響を受けて、意味もデザインも、さまざまに変化してきたということです。

In the eighteenth century form, by which it first became known to the world of archaeological research, it is really a card of married life, shewing father and mother, with their child placed between them; and the pagan Cupid above, in the act of flying his shaft, is, of course, a misapplied emblem.
18世紀の形態においては、それ(カード)が考古学的な研究の世界に最初に知られるようになったものによると、それは実際に結婚生活のカードであり、父親と母親と、彼らの間にいる子供を表している。そして、矢を射ようとしている最中の異教のキューピッドは、もちろん、適用を誤った象徴である。

 18世紀のタロットの「古学的な研究の世界に最初に知られるようになったもの」とは、ジェブラン氏の『原始の世界』を指しているのでしょう。
 そこには「結婚」のカードと、「若い男と若い女は、お互いへの信頼を自身に誓う。司祭は、彼が特徴づける愛の表現で、彼らを祝福する。」となっているので、ウェイト氏のこの部分の記述とは、ちょっと相違がありますけどね。
 実際のところ、この図中の3人の立場については、今までにも色々な説というかネタが提供されています。
 ・ジェブラン説: 新婦(左)、新郎(中)、司祭(右)
 ・エッティラ説(大司祭のカード): 新婦(左)、司祭(中)、新郎(右)
 ・レヴィ説(図なし): 美徳女(左あるいは右)、男性(中)、悪徳女(右あるいは左)
 ・パピュス説: 美徳女(左)、男(中)、悪徳女(右)
 なぜか司祭が、途中で女に入れ替わっているんですよね・・・・。
 キューピッドの位置も、左右入れ替わりがあったりします。
 ちなみに、キューピッドは、キリスト教から見れば異教であるローマ神話に出てくる愛の神であり、背中に羽をつけて恋の矢を放つ姿が定番ですね。
 もちろん、キリスト教時代には、エロス系の神ですので、迫害されることになりましたが、庶民の信仰は厚いものがありますね。


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原始の世界』の「6:結婚」

The Cupid is of love beginning rather than of love in its fulness, guarding the fruit thereof.
「キューピッド」はたっぷりの愛情と、それの果実を守ることよりむしろ、愛の始まりのものである。

 本来キューピッドは、「結婚=たっぷりの愛情と、それの果実(子供)を守ること」、よりも、「恋人=愛の始まり」のシンボルであるということです。
 つまり、「結婚」のカードに、「矢を射ようとしているキューピッド」というのは場違いな存在であるということですよね。

The card is said to have been entitled Simulacrum fidei, the symbol of conjugal faith, for which the rainbow as a sign of the covenant would have been a more appropriate concomitant.
カードには、信仰の姿、あるいは、誓約のしるしとしての虹が、より適切に付随している場合では、「夫婦の信頼の象徴」、という名称を与えられていると言われている。

 「Simulacrum fidei/信仰の姿」というのは、司祭の前で信仰告白をしている男女というイメージからだと思われます。
 ただし、キューピッドがいる場面で、信仰告白ってのは無いですよね〜。
 仰々しい信仰告白の場で、キューピッドが矢を放つと、よくあるコメディの1場面になってしまいそうです。(笑)

The figures are also held to have signified Truth, Honour and Love, but I suspect that this was, so to speak, the gloss of a commentator moralizing.
図はまた、「真実」、「貞節(名誉)」、そして「愛」を意味しているとの考えも持たれているが、私は、これは言わば、解説者が道を説くためのこじつけであったと疑っている。

 「Truth, Honour and Love/真実・貞節(名誉)・愛」というのは、結婚というキャッチフレーズには、割とピッタリしますよね。
 つまり、現世利益を見せかけるための、こじつけではないかと思っているわけです。

It has these, but it has other and higher aspects.
それ(このカード)は、これらを持ってはいるけれども、他の、そしてより高い面を持っている。

 つまり、この現世における「真実・貞節・愛」という陳腐な解釈もできるけれども、もっと高い次元におけるもっと大事なものを持っているよ、と言いたいわけです。
 大アルカナは基本的には現世のことを表さないので、まあ当然の結論ではありますね。



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従来(マルセイユ版)の戦車

7. The Chariot.
7. 「戦車」。
This is represented in some extant codices as being drawn by two sphinxes, and the device is in consonance with the symbolism, but it must not be supposed that such was its original form; the variation was invented to support a particular historical hypothesis.
これは、2頭のスフィンクスにより引かれる存在として、いくつかの現存の古写本に描かれており、その図案は象徴主義と調和するが、そのようなものが、その原始の形態であったと思われてはならない。変化は、特定の歴史的な仮説を支持するために発明された。

 2頭のスフィンクスとなっている「extant codices/現存の古写本」の例として、レヴィ氏の『高等魔術の教理と祭儀』の戦車を挙げておきます。
 ウェイト氏は、このレヴィ氏の意見やデザインを参考にしていると思われます。詳しくは、PartU§2の「7:戦車」の項を参考にしてください。
 なお、「particular historical hypothesis/特定の歴史的な仮説」は、おそらく『旧約聖書:出エジプト記』の部分をモチーフにして、このカードをデザインしたことを指していると思われます。
 ウェイト氏は、このレヴィ氏の変化球を気に入ったみたいで、これをメインのネタに持ってきたようですね。


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高等魔術の教理と祭儀』の戦車

In the eighteenth century white horses were yoked to the car.
18世紀には、白馬が戦車にくびきをかけられていた。

 ジェブラン氏の『原始の世界』には、2頭の白い馬と書かれています。
 マルセイユ版では、17世紀のジャン・ノブレ版は白馬と栗毛のコンビですが、ジャック・ヴィーブル版、ジャン・ドダル版、ニコラ・コンヴェル版は白馬の2頭立てです。
 あくまでも、多数派で通俗的な意見を拒む、へそまがりなウェイト氏なのでした。(笑)

As regards its usual name, the lesser stands for the greater; it is really the King in his triumph, typifying, however, the victory which creates kingship as its natural consequence and not the vested royalty of the fourth card.
その普通の名前について言えば、より劣った(地位の)者が、より優れた(地位の)もののために戦うことである。 それは、本当に勝利を得た「王」であるけれども、第4のカードの既得の王権ではなく、自然な結果として、王の地位についた勝利の典型である。

 「usual name/普通の名前」というのは、「従来の戦車の解釈」では、という意味ですね。
 この戦車に乗っているのは、最初は低いレベルの人物であったが、次々に勝利と経験を重ね、次第に名声や権力を獲得して、その結果として偉大な人物になっていったということですかね。
 ちなみに「fourth card/第4のカード」は、「皇帝」ですが、こちらは世襲制というか天から与えられた王権となっているようです。

M. Court de Gebelin said that it was Osiris Triumphing, the conquering sun in spring-time having vanquished the obstacles of winter.
クール・ド・ジェブラン氏は、それが「オシリス神の凱旋式」であり、春に勝利を得た太陽が冬の障害に打ち勝つことであると言っている。

 「M. Court de Gebelin/クール・ド・ジェブラン氏」というのは、『原始の世界』に書かれている著者名で、「M.」というのは、フランス語の「男性(ムッシュ)」、つまり英語では「Mister(ミスター)」に相当しています。

 オシリス神は、古代エジプトの最上級の神であり、ジェブラン氏の解説には、オシリス神とイシス神が、たくさん出てきています。

We know now that Osiris rising from the dead is not represented by such obvious symbolism.
死から甦る「オシリス」が、そのような見え透いた象徴主義により表されないことを、我々は今では知っている。

 つまり、目に見えるような、単純な四季の変化を表すというようなものではない、ということです。
 物理界の表現ではなく、あくまでも精神界にこだわるウェイト氏ですからね。

Other animals than horses have also been used to draw the currus triumphalis, as, for example, a lion and a leopard.
馬より他の動物もまた、例えば、ライオンやヒョウなどが、凱旋車を引くのに用いられている。

 「currus triumphalis/凱旋車」というのは、戦いに勝ってパレードする時に乗る、装飾付きの馬車あるいは戦車です。
 ライオンやヒョウでは、馬みたいには長くは走れないので、どう考えても見栄え重視のパレード用です。(笑)
 戦車を引かせる動物は、やはり馬が一番実用的ですよね。



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従来(マルセイユ版)の力
番号は11になっていることに注意

 従来カードの説明なのに、いきなりカードの順番が入れ替えられています。
 マルセイユ版では、この力のカードは11の数字が割り当てられていますが、ウェイト氏はどうしても8番目に説明したいようです。
 きっとPartUの解説まで待てない!といった感じなのでしょうね。(笑)

8. Fortitude.
8. 「剛毅」。
This is one of the cardinal virtues, of which I shall speak later.
これは、基本的な徳の1つであり、それについては、私は、後で述べるつもりである。

 西洋世界における「cardinal virtues/基本的な徳」については、古代ギリシャの哲学者であるプラトン(AD427-AD347)の著作である『国家』での記述が、代表的ですね。
 また、タロットと「cardinal virtues/基本的な徳」の関係については、ジェブラン氏の『原始の世界』の中に説明があり、そこでは以下の対応となっています。
 ・「Prudence/思慮分別」 - タロットの「12:吊られた男
 ・「Justice/正義」 - タロットの「8:正義
 ・「Temperance/節制」 - タロットの「14:節制
 ・「Fortitude/剛毅」 - タロットの「11:力

The female figure is usually represented as closing the mouth of a lion.
女性の人物像は、通常、ライオンの口を閉じているとして表される。

 ライオンの口を閉じているというのはレヴィ氏の『高等魔術の教理と祭儀』からで、それ以降の解説本では、ポール・クリスチャン氏やパピュス氏、そしてゴールデン・ドーンでも、閉じる派が一般的になりました。

In the earlier form which is printed by Court de Gebelin, she is obviously opening it.
クール・ド・ジェブラン氏により印刷される、以前の形式では、彼女は明らかにそれを開いているところである。

 ジェブラン氏の絵では、大きな猟犬の口を開けようとしている女性を描いているそうです。


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原始の世界』より「11:力」

The first alternative is better symbolically, but either is an instance of strength in its conventional understanding, and conveys the idea of mastery.
最初の代替手段は、象徴的にはより良いが、どちらも伝統的な理解における強さの例であり、優越の観念を表している。

 「first alternative/最初の代替手段」というのは、「口を開ける」かわりに「口を閉じる」という変更点ですね。
 確かに、口を閉じる方が、よりスマートな感じがします。
 でも、ウェイト氏は、そういう傲慢にも見える「物理的な強さ」には不満だし、明らかに女性上位に見えるアマゾネス的な構図にも不満なようです。
 もっともっと、「精神的に頑張ってるな〜。あきらめずに頑張れ!」と声をかけたくなるようなスマートなものを期待しているのでしょうね。

It has been said that the figure represents organic force, moral force and the principle of all force.
図は、有機的な力、精神的な力、およびすべての力の本質を表すと言われている。

 「organic force/有機的な力」というのは、おそらくは生物体が生み出す物理的な力のことを指しているのでしょう。 

 ただし、ここも現在完了形なので、おそらくウェイト氏は、こういう「当たり前」の考え方は否定していますね。



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従来(マルセイユ版)の隠者

9. The Hermit, as he is termed in common parlance, stands next on the list; he is also the Capuchin, and in more philosophical language the Sage.
9. 一般的な用語での呼ばれ方によれば、「隠者」は、リストの次にある。 彼はまた「カプチン修道会修道士」であり、より哲学的な言語では、「賢人」である。

 「Capuchin/カプチン修道会修道士」というのは、レヴィ氏の『高等魔術の教理と祭儀』にあり、「Sage/賢人」というのはジェブラン氏の『原始の世界』にあります。

 なお、「stands next on the list/リストの次にある」というのは、大アルカナの順序が、直前の力のカードが、11から8に変更されているけれども、この隠者のカードの順番はそのままで、8の次に9が来るという意味だと思われます。

 ちなみに、「Capuchin/カプチン修道会修道士」というのは、キリスト教のフランシスコ修道会の一派で、清貧主義と長頭巾のマントを特徴としており、「Capuchin/カプチン」という呼び名は、イタリア語の「cappuccio/頭巾」から来ています。


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聖フランシスコ(1182-1226)の像

He is said to be in search of that Truth which is located far off in the sequence, and of Justice which has preceded him on the way.
彼は、その順序の中で遠く離れたところにある「真実」と、途中で彼に先行した「正義」を探していると言われている。

 大アルカナの順番で、遠く離れている「Truth/真実」っていうと、「21:世界」を指しているのかな?
 マルセイユ版の「8:正義」は、数字的には「9:隠者」に先行しているので、間違いなくこれを指していますよね。
 ちなみに、ジェブラン氏の『原始の世界』では、このカードのタイトルを「賢人、あるいは真実と正義の探求者」としていますので、その辺りのネタなのでしょう。

But this is a card of attainment, as we shall see later, rather than a card of quest.
しかし、我々が後に気づくように、これは探索のカードというよりむしろ到達のカードである。

 いきなり全否定するウェイト氏って、やっぱり、ヘソ曲がりです。(笑)

It is said also that his lantern contains the Light of Occult Science and that his staff is a Magic Wand.
また、彼のランタン(手さげランプ)は「神秘学の光」を含んでいて、彼の杖は「魔術棒」であるとも言われている。

 ここは、見たままですね。
 安易すぎるネタは、ウェイト氏から叩かれます。

These interpretations are comparable in every respect to the divinatory and fortune-telling meanings with which I shall have to deal in their turn.
これらの解釈は、予言と占いの意味の全ての関係において、私がそれら(予言と占い)の仕事に従事しなければならないものに匹敵している。

 「divinatory/予言」は、「divine/神」に関係する占いですので、シャーマン系占いなどの先天的な才能に依存する占いの部類ですかね。
 「fortune-telling/占い」は、その人の運命を読み解くものであり、占星術やカード占いなどの技術的な占いの部類です。
 タロット占いは、divinatory系の人もいますし、fortune-telling系の人もいますけど、ウェイト氏は、どちらの占いについても否定的です。
 ウェイト氏は、根っからのオカルト好きではありますが、世俗的な占いの仕事については、あんまり好きできはないんですよね。 

 で、何が言いたいのかと言うと、従来の解釈というのは、しょせん世俗的な占いの解釈の範囲を超えるようなものではないよ、と言ってるわけです。

The diabolism of both is that they are true after their own manner, but that they miss all the high things to which the Greater Arcana should be allocated.
両方の妖術は、それら自身のやり方に従えば、それらは本物ではあるが、大アルカナが割り当てられるべきである高いものを全て失っている。

 本来、大アルカナに割り当てられるのは、より高い世界での意味です。
 予言や占いというのは、基本的には現世という低俗的な世界に適用する術ですので、ウェイト氏の考える大アルカナとは、住む世界が違うということですよね。

 でもまあ、大アルカナを占い的に解釈しようとしても、かなりあいまいなものしか出て来ないのは、確かなんですけどね。
 恋人たちのカードが出たから恋人が出来る、なんていう低俗的解釈をするような占い師にも、彼ら自身の世界では本物として通用しているわけですけど、そういうのって何だかなぁ〜、という感じはしますよねー。

It is as if a man who knows in his heart that all roads lead to the heights, and that God is at the great height of all, should choose the way of perdition or the way of folly as the path of his own attainment.
それはまるで、心の中では、全ての道が高き所に通じており、その「神」は全てのうちで最高に高き所にいるのを知っている男が、彼自身の達成の小道として、破滅の道か愚行の道を選んでしまうようなものである。

 大アルカナを占い目的で使用したり解釈したりするのは、ウェイト氏によると、破滅の道か愚行の道だそうです。
 そういえば、聖書の中にも、占いを禁止する記述が、数多く出てきますよね。
 ウェイト氏は、占いというものは、仕事の一部にしてはいますが、決してそれを認めているわけではないということです。

Eliphas Levi has allocated this card to Prudence, but in so doing he has been actuated by the wish to fill a gap which would otherwise occur in the symbolism.
エリファス・レヴィはこのカードを「思慮分別」に割り当てているが、そうする際に、彼は間隙を埋めるという願望に駆られて行っており、それは象徴主義において起こるものとは別のものである。

 レヴィ氏の『高等魔術の教理と祭儀』では、「Prudence/思慮分別」を「9:隠者」に割り当てています。
 また、ジェブラン氏は「Prudence/思慮分別」を「12:吊られた男」に割り当てています。
 ウェイト氏は、彼らとはまた別の考え方のようです。
 他の「Justice/正義」=「8:正義」、「Temperance/節制」=「14:節制」、「Fortitude/剛毅」=「11:力」、については、特に異論は無いようです。

The four cardinal virtues are necessary to an idealogical sequence like the Trumps Major, but they must not be taken only in that first sense which exists for the use and consolation of him who in these days of halfpenny journalism is called the man in the street.
4つの基本的な徳は、大アルカナのような観念学的な系列に必要であるが、最近の半ペニーのジャーナリズムにより路上で呼び集められた者による利用と慰安のために存在しているような、その最初の印象だけで彼らを理解しようとしてはいけない。

 「idealogical/観念学的な」ってあまり聞かない言葉なので、「ideological/イデオロギー(観念学)的な」の誤記かもしれませんね。
 ちなみに、「4つの基本的な徳」を唱えたプラトンの古代哲学なども、イデオロギーというものの範疇です。

 「halfpenny journalism/半ペニーのジャーナリズム」というのは、当時のロンドンあたりで売られていた半ペニーの夕刊紙のことを言っています。朝刊紙は、ちょっとお堅い記事が多いのですが、夕刊紙は、もっと一般大衆向けの娯楽要素の強いものでした。
 「… called the man in the street/路上で呼び集められた者」というのは、そういう大衆紙に群がる読者のオヤジたちですね。
 現代の日本でも、夕刊専門誌は、大衆向けというか、オヤジ向けというか、ちょっとエロくて過激な内容になっていますよね。(笑)

 で、ウェイト氏は、4つの基本的な徳と、大アルカナとの対応については、もっと真剣に考えないといけないよ、と言いたいわけですよ。

In their proper understanding they are the correlatives of the counsels of perfection when these have been similarly re-expressed, and they read as follows:
それらは、相似して再表現されているならば、熟達者の協議の相関物であるという適切な理解において、以下の通り解釈する。

 過去の評論家たちにより、今まで何となく似たような大衆向けの解釈をされているので、ここで過去の評論家の意見をまとめて説明して、ついでにケチを付けておくよ、と言いたいわけですね。

 というわけで、いつものウェイト氏の、皮肉たっぷりな文章が以下に続きます。

(a) Transcendental justice, the counter-equilibrium of the scales, when they have been overweighted so that they dip heavily on the side of God.
(a) 超越的な正義。それは、「神」の側で重く下がるように荷を積み過ぎた時、天秤は反対の釣り合いとなる。

 わざわざ「Transcendental/超越的な」という修飾語を付けていますが、これはおそらく皮肉まじりの表現です。
 正義の持つ天秤の皿の一方には、おもりが置かれていて、いつもはそちら側に傾いています。
 そして、もう一方の皿に置かれたものは、神の価値観で判断され、価値があると判断されれば、その側に傾きます。

 個人的には、神という画一的な価値観の押しつけみたいで、何となく嫌な感じもしますが。
 そもそも、天秤というのは「正しい分量を計り取って、正しく物事を作り上げる」ための製作者の道具です。
 何も作れない口先だけの評論家が、偉そうに製作物の善し悪しを決めつけるための道具ではないんですよね。

The corresponding counsel is to use loaded dice when you play for high stakes with Diabolus.
対応する勧告は、あなたが「悪魔」と共に大ばくちを打つときは、積み込まれたサイコロを使用すること、である。

 「loaded dice/積み込まれたサイコロ」、つまりイカサマをするということですよね・・・。
 全能の神や天使であっても、悪魔や人間の企てるイカサマを見破れないというのは、けっこう衝撃的な考えです。(笑)

The axiom is Aut Deus, aut nihil.
原理は、「神であるか、無であるか」である。

 「Aut Deus, aut nihil/神であるか、無であるか」は、ラテン語です。
 「○=天国行き」か「×=地獄行き」かで表すって、神の価値観というのはデジタル的な思考なんですかね。

 なお、直前の文章のニュアンスからは、「Aut Deus, aut nihil/イチかバチか!」という意訳の方がいいような感じもしますね。(笑)

(b) Divine Ecstacy, as a counterpoise to something called Temperance, the sign of which is, I believe, the extinction of lights in the tavern.
(b) 「神の歓喜」。私が思うに、それは居酒屋での明かりの消滅の兆候である「節制」と呼ばれている何かのための均衡おもりとしてある。

 「Temperance/節制」というのは、「Divine Ecstacy/神の歓喜」と表裏一体の関係にあって、今までの「節制」はまるで「居酒屋での歓喜」みたいなものだということなんですかね。
 そういえば、日本にも、「ハレとケ」という概念があり、日々の生活における節制と、神への感謝の大規模な祭りの対比は、日本のあちこちでも見られました。ヲタが日々の衣食住費を切り詰めて、イベントで散財するというのも、おそらく同じようなことです。

 そういえば、「節制」のカードに書かれている水差しって、宴会の時にも使うものなので、ひょっとすると、この節制のカードの絵は、居酒屋での宴会風景がモチーフなのかもしれませんね。
 日々節制せずに、「節制」という看板を掲げた居酒屋で飲んだくれているウェイト氏というのは、容易に想像できます。(笑)

The corresponding counsel is to drink only of new wine in the Kingdom of the Father, because God is all in all.
対応する勧告は、「神」はあらゆるものの中での全てであるので、「父の国」の新しいワインだけを飲むこと、である。

 ここは、『新約聖書:マタイ福音書』26:29のネタですかね。
 「But I say unto you, I will not drink henceforth of this fruit of the vine, until that day when I drink it new with you in my Father's kingdom./言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」

 ちなみに、イエスも結構な酒飲みだったということです。
 でも、キリストとして復活した後では、地上の酒なんてマズくて飲めねぇよ! ということなのかもしれません。
 天国良いとこ、一度はおいで!(笑)

The axiom is that man being a reasonable being must get intoxicated with God; the imputed case in point is Spinoza.
原理は、思慮分別のある存在である人間は、「神」に酔わなければならないということである。 帰属する代表例はスピノザである。

 「intoxicate/酔わせる」という言葉は、本来「中毒にさせる」ということですので、行きすぎた酩酊状態は人を狂わせます。
 その行きすぎた状態が、スピノザの「汎神論」であり、「全ては神のままに」ということになるわけです。

 どうやらウェイト氏は、スピノザも「節制」もいまいち好きではないみたいです。(笑)

(c) The state of Royal Fortitude, which is the state of a Tower of Ivory and a House of Gold, but it is God and not the man who has become Turris fortitudinis a facie inimici, and out of that House the enemy has been cast.
(c) 「王者の剛毅」の状態、それは「象牙の塔」と「金の家」の状態である。しかしそれは、人間(の状態)ではなく、「敵に対する力強い塔」となった「神(の状態)」であり、その「家」の外には、敵が投げ捨てられている。

 「Tower of Ivory/象牙の塔」は、『旧約聖書:ソロモンの雅歌』7:4の「Thy neck is as a tower of ivory/首は象牙の塔」から、そして「House of Gold/金の家」も、旧約聖書の中のあちこちに記述があります。
 「Turris fortitudinis a facie inimici/敵に対する力強い塔」は、ラテン語での『旧約聖書:詩編』61:4(新共同訳での番号)の「quia factus es spes mea turris fortitudinis a facie inimici/あなたは常にわたしの避けどころ/敵に対する力強い塔となってくださいます。」の部分が元ネタです。

 「神の持つ剛毅」は人間のものを完全に超越していますので、いわゆる無敵状態というものを作り出します。
 とはいえ、そういう起死回生の「神風」は、現実にはそう簡単には起きないわけでして・・・・。

The corresponding counsel is that a man must not spare himself even in the presence of death, but he must be certain that his sacrifice shall be-of any open course-the best that will ensure his end.
対応する勧告は、人は死を前にしてさえも、自らの命を惜しんではならず、…どんなに(逃げ出すための)広々とした道があっても…、彼が犠牲になることが、彼の最後を保証するためには最も良いであろうということを確信しなければならないということである。

 たとえ、自分一人が確実に助かるような方法があったとしても、他者のために身を投げ出すことが、美徳であるということですかね。

 自らの命を引き替えにしてでも、何かを成し遂げようというということで、メガザルとかメガンテの呪文に通じるものですかね。
 でも、爆弾岩とか特攻隊とか自爆テロが究極の剛毅かと言われると、ちょっと違うような気もします。
 犠牲になって死ぬことで、天国に逝けるという保証は、何も無いわけですからね。

The axiom is that the strength which is raised to such a degree that a man dares lose himself shall shew him how God is found, and as to such refuge--dare therefore and learn.
原理は、人があえて自分自身(の命)を失う勇気がある程度まで高められた強さは、彼に、そういう避難所としての「神」を見つけ出す方法を教えるだろう。それゆえに、敢えて行い、そして学ぶであろう。

 自らの命を投げ出す覚悟で立ち向かった者は、結果として神の導きを知り、安全な場所にたどり着くことが出来るということですかね。
 ムチャしないヤツには、神は見つけ出すことは出来ないということなのかな?
 というか、何のためにそこまでして神を見いだす必要があるのかという、根本的な問題もあるわけで・・・。

(d) Prudence is the economy which follows the line of least resistance, that the soul may get back whence it came.
(d) 「思慮分別」は、魂がそれが来たところへと戻っていくことのできる、最小抵抗線に従った経済活動である。

 「line of least resistance/最小抵抗線」というのは、最も無難な方法を選択していくという経済手法ということですかね。
 要領が良く、自分は苦労せずに、おいしいとこだけを持って行くというヤツは、よくいますよね。

 で、魂というものは、人の肉体を借りて地上に降り、肉体が死んで天国へと帰って行くわけなので、人間として苦もなく幸せに生きて死んでいくための手法が、「Prudence/思慮分別」ということで、いいんですかい?

It is a doctrine of divine parsimony and conservation of energy, because of the stress, the terror and the manifest impertinences of this life.
それは、神の節約原理とエネルギー保護の教義である。なぜなら、この人生は抑圧、恐怖、および明らかに不適当なためであるから。

 しょせん人間なんて仮の姿だし、世の中ってくだらないし、労せず無理せず楽して生きて死んでいくことが、神の教えということですか、そうですか。
 なんか、厨な考えですよね〜。(笑)

 それにしても、ここまでヒドいこと言って大丈夫ですかい、ウェイトさん。
 こんなこと書くから、みんなから白い目で見られるんですよ。(笑)

The corresponding counsel is that true prudence is concerned with the one thing needful, and the axiom is: Waste not, want not.
対応する勧告は、真の思慮分別は、必要なもの1つに関係するということである。そして、原理は、「無駄にするな、欲しがるな」である。

 要するに、最低限必要なもの一つだけを大事に持って生きていけ、というですかね。
 というより、何も持たずに、さっさと餓死した方がいいのかもしれませんが・・・。

 で、ここからは、まとめの文章になります。

The conclusion of the whole matter is a business proposition founded on the law of exchange: You cannot help getting what you seek in respect of the things that are Divine: it is the law of supply and demand.
その全体の件の結論は、交換の法則に基づいて設立された商売上の提案である。 あなたは、「神」というものに関する探し求めるものを得ることを助けることは出来ない。それは需要と供給の法則である。

 「whole matter/全体の件」というのは、以上に述べた4つの基本的な徳のことですね。
 そして今までの解説は、オカルトとは無関係な、地上でのビジネス的な戦略の提案であると言っています。
 占い師のアドバイスって、そういうビジネス戦略的な意味合いがありますので、そういう傾向になるのは、ある意味必然的ですかね。

 ビジネスは地上の法則であり、神の世界の法則ではありません。
 つまり、今まで述べてきた過去の「4つの基本的な徳」の解釈では、神を見つけ出すことは不可能であるということですよね。
 まあ、神を見つけるよりも、ビジネス上のアドバイスを求める人の方が圧倒的に多いので、こういうのも「需要と供給の法則」なのです。

 大アルカナの示す「徳」というのは、地上での成功を指すものではないし、それを実践すると人気者になれるということでもありません。
 逆に世間からは、変わり者と見られて、無視されるか虐待されることが多いのでしょう。

 ・従来解釈の正義は、ビジネス上の戦略であって、神の徳ではない。
 ・従来解釈の節制は、ビジネス上の戦略であって、神の徳ではない。
 ・従来解釈の剛毅は、ビジネス上の戦略であって、神の徳ではない。
 ・従来解釈の思慮分別は、ビジネス上の戦略であって、神の徳ではない。
 ウェイト氏は、そういうことを言いたいわけです。

I have mentioned these few matters at this point for two simple reasons:
私は、2つの簡単な理由のために、この点で多少の根拠について言及しておく。

 つまり、今までの胡散臭い従来解釈について、何がいけないのかを以下に述べてあげよう、ということですよね。

(a) because in proportion to the impartiality of the mind it seems sometimes more difficult to determine whether it is vice or vulgarity which lays waste the present world more piteously;
(a) なぜならば、精神の公平さに比例して、現世をより痛ましく無駄にする悪徳であれ俗悪であれ、それを決めるのが、時々より難しく思われるから。

 知性や理性があり、高い精神力のある人は、物事を一面から見ることはなく、簡単に善悪の判断を下すことは無い、ということです。
 逆に、頭が悪い人は、自分の主観だけで一面的に善悪判断とか価値判断を下してしまうということですよね。

 つまり、悪徳や俗悪に見えるものが、実は美談であったり、なんか立派に見えることが、実はとんでもないことであったり・・・。
 まあ、世間では、よくあることですけどね。

(b) because in order to remedy the imperfections of the old notions it is highly needful, on occasion, to empty terms and phrases of their accepted significance, that they may receive a new and more adequate meaning.
(b) なぜならば、昔の概念の欠陥を改善するためには、彼らが受け入れた意味ありげな言葉や文句を空にして、新しくて、より適切な意味を受け取ることができる場合には、非常に必要なことであるので。

 要するに、昔の解釈はダメダメなので、それらを全部チャラにして、そのかわりにオレ様の有り難い意見を受け入れろ、ということですよね。
 ウェイト氏って、強烈な自信家なのです。



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従来(マルセイユ版)の運命の輪

10. The Wheel of Fortune.
10. 「運命の輪」。
There is a current Manual of Cartomancy which has obtained a considerable vogue in England, and amidst a great scattermeal of curious things to no purpose has intersected a few serious subjects.
イギリスでかなりの人気を得て、今流行している『占いの手引き書』があり、意味の無い奇妙な物の大量に撒き散らされた粗挽き粉の中で、いくつかの重大な問題に交わっている。

 『Manual of Cartomancy/占いの手引き書』は、イギリスのライダー社から出版しているグランド・オリエント名義のウェイト氏の著書ですので、自画自賛の宣伝みたいなのです。(笑)
 しかしながら、この本は占いオタク向けのものなので、ウェイト氏はその内容については、「scattermeal/撒き散らされた粗挽き粉」、つまり家畜に与えるような粗末なエサみたいな扱いになってます。ウェイト氏にとってグランド・オリエント名義で占いネタの本を書くことは、家畜を飼育して生活の糧を得るみたいなことであって、決して好きでやってるわけではないということなんですかね。

In its last and largest edition it treats in one section of the Tarot; which--if I interpret the author rightly--it regards from beginning to end as the Wheel of Fortune, this expression being understood in my own sense.
最新の最も大きな版では、それをタロットの1つの章で論じている。 それ(タロット)は、…私が著者を正しく解釈しているならば…初めから終わりまでを、「運命の輪」と見なしていると、この表現は私自身の感覚で理解される。

 『占いの手引き書』で現在入手可能なのは、1912年発行の第5版ですが、1909年発行の第4版からは「THE BOOK OF THE SECRET WORD AND THE HIGHER WAY TO FORTUNE」というタロット占いに関する章が追加されていますので、それの宣伝みたいですね。
 また、その本にはタロットとの直接の関係はないけど「THE GOLDEN WHEEL OF FORTUNE」という章もありますので、それも興味があれば見てね、というウェイト氏の宣伝でもあるのでした。
 せっかくですので、興味のある方は、見てあげてください。

 で、占いの世界においては、「大アルカナの22枚の並びは、それ自体が運命の輪である」と言いたいわけですかね。

I have no objection to such an inclusive though conventional description; it obtains in all the worlds, and I wonder that it has not been adopted previously as the most appropriate name on the side of common fortune-telling.
私は、そのような伝統的ではあるが包括的な解説には異論はない。 それは、世界の全ての中にあるものである。そして私は、それが以前に一般的な占いの側では最も適切な名前としては採用されないと思う。

 あくまでも占いの話に限るのであれば、そのような大風呂敷的な解説でも問題は無いという自己弁護ですかね。
 「it obtains in all the worlds/世界の全ての中にあるものである」というのは、この世界の運命は、この「運命の輪」の中に存在している、というような、いわゆる普遍的な原理みたいなことを言っているのではないかと思われます。
 でも、それを言ってしまうと、他のカードの存在意義が無くなってしまい、このカード一枚だけで占いの全てが完了してしまいます。
 多くのカードを使って見栄を張りたい占い師も存在意義はなくなりますし、一枚一枚の意味が細かく規定されていないと、マニュアル化された占い師にとっては、極めて使いにくいものになりますので、占い師の方からも、そういう意見は却下されるということです。

It is also the title of one of the Trumps Major--that indeed of our concern at the moment, as my sub-title shews.
それはまた、大アルカナの一つのタイトルであり、…それはまさに今、私の副題が示しているように、我々の関心事である。

 ウェイト氏、自著の宣伝から、やっと本題に戻ってきました。

Of recent years this has suffered many fantastic presentations and one hypothetical reconstruction which is suggestive in its symbolism.
近年、これ(運命の輪)は、多くの空想的な提示と、その象徴主義において思わせ振りな1つの仮説的な再建を受けた。

 「fantastic/空想的な」というのは、根拠に乏しいというようなネガティブな感じです。
 重要なポジションにあるカードですので、バラエティに富んだ解釈を受けて、色々なデザインに変化しているわけです。
 なお、このカードの再建を企てたのは、レヴィ氏です。

The wheel has seven radii; in the eighteenth century the ascending and descending animals were really of nondescript character, one of them having a human head.
輪には、7つの腕がある。 18世紀には、上昇と下降する動物たちは、本当に今まで見たこともない特徴のものであり、それらの1つは人の頭を持っていた。

 まず最初の例となったのは、ジェブラン氏です。


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原始の世界』より「10:運命の輪」

 「radii/半径となる腕、車輪のスポーク」は、6本は半径方向で、1本は輪を支える支柱へと繋がっています。
 「nondescript/今まで見たこともない」というのは、得体の知れない下賤なモノという感じもあります。
 ジェブラン氏の絵は、かなりいかがわしいデザインなので、こういうモロに手抜きしたようなものは、ウェイト氏は好きではないようです。

At the summit was another monster with the body of an indeterminate beast, wings on shoulders and a crown on head.
頂上には、不確定の野獣の体、肩には翼、頭には王冠のある別の怪物がいた。

 「indeterminate beast/不確定の野獣」というのは、名前も特定できないようなケモノということで、確かに子供の落書きのような変てこなモノが3匹描かれています。

It carried two wands in its claws.
それ(怪物)は、2本の棒を爪で掴んで持っていた。

 なんとなく太鼓を叩いているようにも見えますが、一体何をしようとしているでしょうか?

These are replaced in the reconstruction by a Hermanubis rising with the wheel, a Sphinx couchant at the summit and a Typhon on the descending side.
再建で、これらは輪と共に上る「ヘルマニュビス」、頂上でうずくまった「スフィンクス」、下降側の「テュポン」に取り替えられる。

 とりあえず、再建されたレヴィ氏の絵を引き合いに出しています。
 詳しい話は、PartU§2の「10:運命の輪」を参照してください。


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大いなる神秘の鍵』より「運命の輪」

Here is another instance of an invention in support of a hypothesis; but if the latter be set aside the grouping is symbolically correct and can pass as such.
ここに、仮説を支持する発明の別の例がある。 しかし、後者を除外すれば、組み分けは象徴的に正しく、それ自体としては通用することができる。

 「仮説を支持する発明の別の例」は、おそらくは、オズワルト・ウィルト氏のタロット(1889年)で、パピュス氏の『ボヘミアンのタロット』にも参考図として掲載されています。このタロットは、レヴィ氏のタロットの図を参考にしていますので、よく似ています。


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ボヘミアンのタロット』より「10:運命の輪」

 で、ウェイト氏が「後者を除外」と言っているのは、直前の文で最後に出てくる「Typhon on the descending side/下降側のテュポン」のことを指しています。ウェイト氏は、このデザインがいまいち気に入らないようで、わざわざ別のシンボルで置き換えています。
 あくまでもオリジナルデザインにこだわりのあるウェイト氏なのでした。(笑)



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従来(マルセイユ版)の正義
番号は8になっていることに注意

11. Justice.
11. 「正義」。
That the Tarot, though it is of all reasonable antiquity, is not of time immemorial, is shewn by this card, which could have been presented in a much more archaic manner.
それはタロットが、たとえそれが正当な古代の遺物から成っているとしても、遠い昔の時代のものではないということが、このカードにより示されており、それ(このカード)はより一層昔風の方法で呈示されたかもしれない。

 「Justice/正義」というものは、古代ギリシャ時代、いやおそらく人間が知性を持った時代にまて遡ることのできる基本的な徳に属する考えです。
 そして、タロットの図には、そういう昔から伝わる「正義」に関する象徴が数多く取り入れられてはいますが、そのことによりタロットが昔から存在するということにはならない、ということですよね。

Those, however, who have gifts of discernment in matters of this kind will not need to be told that age is in no sense of the essence of the consideration; the Rite of Closing the Lodge in the Third Craft Grade of Masonry may belong to the late eighteenth century, but the fact signifies nothing; it is still the summary of all the instituted and official Mysteries.
しかしながら、この種のものに関する洞察力の才能を持っている者たちにとっては、年代は考慮の本質には意味が無いと言われる必要はないであろう。「メイソンリーの第三職人階梯」内の「ロッジの終了の儀式」は、18世紀後期に属しているであろうが、その事実は何も重要なことではない。それでも、それ(儀式)はすべての制定された公式の神秘的教義の概要である。

 いきなり冒頭から、わけわかんないことを書いていますが、二重否定の遠回し表現ですので、要注意です。
 おそらくは、取り入れられた象徴の年代をきちんと検証していくことは、こういう神秘主義の象徴の意味を読み解いていくためには、それなりに重要なことではあるが、そればかりに拘る必要は無い、と言いたいのだと推定します。

 「Third Craft Grade of Masonry/メイソンリーの第三職人階梯」というのは、おそらくは最上位の「Master Mason/親方」階級で、真の秘密を伝授された階級です。
 「Rite of Closing the Lodge」は、メイソンリーのロッジでの集会の「終了の儀式」で、日本の一般的儀式では「開式の辞/閉式の辞」に相当するものです。
 最上位階級における部外秘のメイソンリーの儀式なので、ここでは色々な道具が象徴として使われます。
 「the instituted and official Mysteries/制定された公式の神秘的教義」というのは、特定の神秘主義団体の中で、明文化され、確立され、一般的にも認められた教義のことを指します。

 結局のところ、タロットもメイソンリーの儀式も、新しい時代に新規に創作されたものではあるけれども、そこに含まれる象徴と意味は、太古の昔から受け継がれてきた神秘主義を表現したものであり、伝統的にも正統なものであると言いたいわけですかね。

The female figure of the eleventh card is said to be Astraea, who personified the same virtue and is represented by the same symbols.
11番目のカードの女性の姿は、「アストライア」であると言われており、彼女は同じ徳を擬人化したもので、同じ象徴によって表される。

 「アストライア」説は、ジェブラン氏の『原始の世界』にあります。
 この「Astraea/アストライア」はギリシャ神話に出てくる正義の女神で、ローマ神話の「Justitia/ユースティティア、正義」と同一視されています。
 実のところ、タロットの正義の女神が誰であるかは、色々な説があります。というか正義の女神というのは人気のある役回りで、色々な神話や伝説に色々なタイプの女神が出てきて活躍しているので、なかなか正義の女神のNo.1キャラを決められないという事情もあるわけです。
 というわけで、みんなも、自分の好きなキャラを当てはめて、妄想すればいいと思うのでした。(笑)

This goddess notwithstanding, and notwithstanding the vulgarian Cupid, the Tarot is not of Roman mythology, or of Greek either.
この女神にもかかわらず、および低俗なキューピッドにもかかわらず、タロットはローマ神話のものではなく、ギリシャ神話のものでもない。

 キューピッドは、ローマ神話に出てくる愛の神で、「6:恋人たち」のカードで登場していました。
 いずれにしても、タロットの本質は、このような神話に出てくる低俗で擬人化された神のようなものではなく、もっと高位のものであると言いたいようです。

Its presentation of justice is supposed to be one of the four cardinal virtues included in the sequence of Greater Arcana; but, as it so happens, the fourth emblem is wanting, and it became necessary for the commentators to discover it at all costs.
その正義の提示は、大アルカナの系列に含まれていた4つの基本的な徳の1つであると考えられている。 しかし、そうであるならば、第4の寓意画が不足しており、そして、解説者にとって、何としてもそれを発見することが必要となった。

 とりあえず、正義のカードの話は、ここで終わって、次は別の話に飛びます。
 ウェイト氏って、正義というものにはあまり興味は無いんですよね。
 ちなみに、不足している「fourth emblem/第4の寓意画」というのは、「Prudence/思慮分別」です。

They did what it was possible to do, and yet the laws of research have never succeeded in extricating the missing Persephone under the form of Prudence.
彼らは、出来るかぎりのことをやってみたのであるが、研究の法律は、「思慮分別」の形式の下で行方不明の「ペルセポネ」を救い出すことに、今まで成功したことがない。

 「the laws of research/研究の法律」って、なんか変な表現なのですが、これはペルセポネの神話に関係します。
 ペルセポネは冥王ハデス(ローマ神話ではPlutoなので、Prudenceの言葉ネタ?)に騙されて冥府のザクロを食べてしまい、冥界の掟に従って1年のうちの1/3を冥界で暮らさなければならなくなった女神なのですが、その掟を打ち破ってペルセポネを地上に完全に連れ戻すことの出来るような逆転裁判的な法律解釈は出来なかったということです。
 つまり、当時の研究は、どれもが一長一短あったために、思慮分別は1年のうちの1/3を冥界で暮らさなければならない中途半端な存在だったということです。 

Court de Gebelin attempted to solve the difficulty by a tour de force, and believed that he had extracted what he wanted from the symbol of the Hanged Man--wherein he deceived himself.
クール・ド・ジェブランは、"力わざ"で困難を解決しようと試みて、「吊られた男」の象徴から欲するものを抽出したと信じていたが、…それは彼の思い違いしたところであった。

 前にも説明した通り、ジェブラン氏は『原始の世界』の中で、思慮分別を「12:吊られた男」に配属しています。
 もちろん、ウェイト氏はそれについては否定的です。

The Tarot has, therefore, its justice, its Temperance also and its Fortitude, but--owing to a curious omission--it does not offer us any type of Prudence, though it may be admitted that, in some respects, the isolation of the Hermit, pursuing a solitary path by the light of his own lamp, gives, to those who can receive it, a certain high counsel in respect of the via prudentia.
タロットは、従って、その「正義」、その「節制」、そしてまたその「剛毅(力)」を有しているが、しかし…不思議な脱落のせいで…それは我々に「思慮分別」のどんな典型をも提示しない。けれども、いくつかの点において、彼自身のランプの光で孤独な道を追求する「隠者」の孤立が、それを受け取ることができる人に、"思慮分別へと至る道"に関する、ある程度の高い知恵(=思慮分別)を与えている、ということは認められるかもしれない。

 「Prudence」、「counsel」、「prudentia」というのは、いずれも高いレベルでの思慮分別に通じる言葉です。

 まあ、「12:吊られた男」が思慮分別ってことは全然ありえないけど、聖人みたいな「9:隠者」の方は、ちょっと思慮分別っぽいかもね、ということですが、この辺りの配属的な話になると、ほとんど各人の好みのような気もしてきます。(笑)



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従来(マルセイユ版)の吊られた男

12. The Hanged Man.
12. 「吊られた男」。
This is the symbol which is supposed to represent Prudence, and Eliphas Levi says, in his most shallow and plausible manner, that it is the adept bound by his engagements.
これは、「思慮分別」を表すと推定された象徴であり、エリファス・レヴィは、彼のきわめて浅薄でもっともらしい方法で、それが彼の任務により縛られている(魔術師の)達人であると言っている。

 「Prudence/思慮分別」については、以前の「8:剛毅」と「9:隠者」と「11:正義」の箇所で、ウェイト氏は色々と語っていますので参考にしてください。
 まず、これが「思慮分別を表す」というのはジェブラン氏の考えであり、レヴィ氏は、これが魔術的な作業を表していると言っていますが、これらの意見についてはウェイト氏は否定的です。

The figure of a man is suspended head-downwards from a gibbet, to which he is attached by a rope about one of his ankles.
男性の姿は、絞首台から頭を下にして吊るされており、彼は、彼の足首の一方を縄によって、それ(絞首台)に縛りつけられている。

 見たままの説明ですね。
 片足で逆さ吊りにされる姿は、初期のタロットから良く見られるシーンです。

The arms are bound behind him, and one leg is crossed over the other.
腕は彼の背後で縛られており、一方の脚は、もう片方と交差されている。

 怪しげな束縛プレイですよね…。(笑)

According to another, and indeed the prevailing interpretation, he signifies sacrifice, but all current meanings attributed to this card are cartomancists' intuitions, apart from any real value on the symbolical side.
別の、そして実際に普及している解釈によると、彼は犠牲を意味しているが、このカードに帰せられた現在の全ての意味は、カード占い師たちの直観であり、象徴的な面において、どんな本当の意味からも離れている。

 ジェブラン氏やレヴィ氏のような魔術的でポジティブな解釈は、当時はまだまだ亜流であり、占い的でネガティブな解釈である「犠牲」というのが、当時としては一般的な意味でした。
 で、そういう占い的な解釈についても、ウェイト氏は容赦なく完全否定しています。

The fortune-tellers of the eighteenth century who circulated Tarots, depict a semi-feminine youth in jerkin, poised erect on one foot and loosely attached to a short stake driven into the ground.
タロットを流布した18世紀の占い師たちは、地面に打ち込まれた短い杭に緩く縛りつけられて1本足で平衡を保って直立し、ジャーキンを着た、やや女性的な若者を描写している。

 この「short stake/短い杭(くい)」ですが、stakeには「火あぶり」という意味もありますね。
 「刑」にしても「生け贄」という意味でも、占いの意味からすれば、悪くない象徴ではあります。
 「jerkin/ジャーキン」というのは、16世紀頃に流行した、袖無し、襟無し、丈は腰までの、革製の男性用の上着です。
 ですので、この人物は外見的には女性っぽく見えますが、おそらくは男性です。
 この直立した人物像は、18世紀のカード印刷業者の絵師の勘違いによるもので、それ以前のタロットでは現代と同様、普通に木から逆さ吊りにされていました。
 ちなみに、このタロットを広めた18世紀の占い師たちの絵柄は、ジェブラン氏の本にありますので、笑ってあげてください。


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原始の世界』の「12:思慮分別」

 これって、「Prudence/思慮分別」の無い、単にふざけて遊んでいるとしか見えない絵なんですよね。
 まあ、こういう稚拙な絵を引き合いに出して、当時の占い師やジェブラン氏のことを遠回しに揶揄しているのでしょうけど、それにしても何でこの絵のタイトルが「Prudence/思慮分別」になるんだろう。
 クリクリでロン毛のオカマっぽい兄ちゃんが、ズボン脱がされ変なポーズさせられて写メ取られて、一生の恥辱モノという痛いシーンにしか見えないんだが・・・。



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従来(マルセイユ版)の死

13. Death.
13. 死。
The method of presentation is almost invariable, and embodies a bourgeois form of symbolism.
表現の方法は、ほとんど不変であり、象徴主義のブルジョア的な形態を具体化している。

 「bourgeois/ブルジョア」というのは、今では金持ち的な意味でも使われますが、元々は成り上がりの小商人みたいな、無教養で俗物で体裁にこだわり、物質的なものにしか興味のない、低俗な中産階級の人々のことを指します。
 何に対しても、ことごとく否定的なのがウェイト氏ですけど、この骸骨がブルジョア的というのは、かなりの皮肉が入ってますよね。
 ウェイト氏は、この図案を全く気に入っていないようで、完全に別デザインに変えています。

The scene is the field of life, and amidst ordinary rank vegetation there are living arms and heads protruding from the ground.
場面は生命の野原であり、普通の繁茂した草木の中に、地面から突きだした、生きている腕と頭部がある。

 「field of life/生命の野原」というのは、おそらくは、この物理界にあるものではなく、天上界にあるものです。
 「ordinary rank vegetation/普通の繁茂した草木」というのは、おそらく一般人の雑草のような生命のことを示唆しています。
 その中で、飛び抜けて優秀なものが、突き出した人の腕や頭として、象徴化されているということのようです。
 そして、その頭や腕はまだ生きていて、刈り取られる寸前の状態であるということです。

One of the heads is crowned, and a skeleton with a great scythe is in the act of mowing it.
頭部の一つは戴冠しており、偉大な大鎌を持つ骸骨は、それを刈り取ろうとする最中である。

 「scythe/大鎌」は、死神の持ち物として定番ではありますが、これは武器というよりも、草刈りや収穫に使われる農具です。
 戴冠した頭部は、突出した人生の完全なる実りの象徴であり、骸骨は、その王冠のみを収穫する神の化身ということですかね。

 この部分は、マルクト(王国)からケテル(王冠)へと至る、生命の木がモチーフとなっています。

The transparent and unescapable meaning is death, but the alternatives allocated to the symbol are change and transformation.
明白で逃れられない意味は死ですが、象徴に割り当てられたもう一つのものは、変化と変換である。

 「死」という意味は、タイトル通りで、あまりにも見え透いたものなので、それじゃ神秘的でも何でもないですよね。
 隠されたもう一つの意味というのは、この世にある生命の「死」ではなく、錬金術的な「死」つまり「抽出」と「変成」を意味するものである、ということです。

Other heads have been swept from their place previously, but it is, in its current and patent meaning, more especially a card of the death of Kings.
他の頭部は、以前に彼らの場所から刈られたが、しかし、その現在の明白な意味においては、より特別に王の死のカードである。

 そして、他の戴冠していない頭部も、元は王冠を被っていた王であり、既に刈られた後であるということです。
 このカードは、単なる「万物の死」ではなく、王の体から王冠という実りを刈り取るという「王としての死」であるということですね。

In the exotic sense it has been said to signify the ascent of the spirit in the divine spheres, creation and destruction, perpetual movement, and so forth.
秘教的な意味においては、それは神の領域への霊魂の上昇、創造と破壊、永久の運動などを意味すると言われている。

 「the ascent of the spirit/霊魂の上昇」というのは、王国(マルクト)を築いた王の王冠(ケテル)は、その育った階層の体を離れ、一つ上の階層へと昇っていき、新たな王国(マルクト)を築いていくという、カバラ的な連鎖を意味しています。
 「creation and destruction/創造と破壊」は、そのような進化のための必然的な循環のための要素です。
 そして、「perpetual movement/永久の運動」は、円運動ではなく、ゆるやかに進化と上昇を続ける「螺旋運動」ですね。



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従来(マルセイユ版)の節制

14. Temperance.
14. 「節制」。
The winged figure of a female--who, in opposition to all doctrine concerning the hierarchy of angels, is usually allocated to this order of ministering spirits--is pouring liquid from one pitcher to another.
翼のある女性の姿…彼女は、天使の階層構造に関するすべての教義に反して、通常は奉仕する霊の位階に割り当てられている…は1つの水差しから別の水差しへと液体を注いでいる。

 「ministering spirits/奉仕する霊」というのは、『新約聖書:ヘブライ人への手紙』1:14にある「Are they not all ministering spirits, sent forth to minister for them who shall be heirs of salvation?/天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるため、遣わされたされたのではなかったですか。」の部分を指しているわけで、つまりこの女性は正式な天使であると言われているということです。
 とはいえ、天使は基本的には「中性」であり、性別を明らかにしないことが建前ですので、明確に女性の天使と断言してしまうと、教義的には不都合が生じてしまうということですね。

 女性であれば、天使とは言えない。
 天使であれば、女性とは言えない。
ということです。

In his last work on the Tarot, Dr. Papus abandons the traditional form and depicts a woman wearing an Egyptian head-dress.
パピュス博士は、タロットについての最新の著作の中で、伝統的な形式を捨てて、エジプトのヘッドドレスを着用している女性を描いている。

 このパピュス博士の最新の著作というのは、『タロット占い』という本で、ここではエジプト風の女性が描かれており、頭飾りも、エジプトのものとなっています。


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タロット占い』より「14:節制」

The first thing which seems clear on the surface is that the entire symbol has no especial connexion with Temperance, and the fact that this designation has always obtained for the card offers a very obvious instance of a meaning behind meaning, which is the title in chief to consideration in respect of the Tarot as a whole.
表面上で明らかであるように見える最初のものは、全ての象徴には「節制」との特別な関係は無いということである。そして、この称号(節制)が、常にカードに定着していたという事実は、全体としてタロットに関する考慮への主たる表題の意味の背後にある意味の非常に明白な例を提供している。

 節制のカードに描かれている象徴は、一見して、いわゆる「節制」とは何の脈絡も無い感じではあるけれども、おそらく一般人には簡単には気づかれないところに、何か「節制」に関する深遠なものが隠されているのであろう、と言いたいわけですかね。



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従来(マルセイユ版)の悪魔

15. The Devil.
15. 「悪魔」。
In the eighteenth century this card seems to have been rather a symbol of merely animal impudicity.
18世紀には、このカードは、どちらかというと単に動物的な不謹慎さの象徴であったように思える。

 悪賢い悪魔というよりも、本能が優先し、知能が低い獣的な存在という感じですかね。

Except for a fantastic head-dress, the chief figure is entirely naked; it has bat-like wings, and the hands and feet are represented by the claws of a bird.
風変わりなヘッドドレスを除いて、主要な像は完全に裸である。 それは、コウモリのような翼を持ち、そして手と足は鳥の鉤爪によって表される。

 「chief figure/主要な像」というのは、中央に立つの悪魔像を指しています。
 獣の醜い姿にされているのは、恐怖の対象ということですかね。

In the right hand there is a sceptre terminating in a sign which has been thought to represent fire.
右側には、火を表すと考えられていた象徴で終結する笏(しゃく)がある。

 マルセイユ版では、「right hand/右手」は何も持っていませんので、これは右側、つまり悪魔像の左手の意味だと思われます。
 ちなみに、パピュス氏の『ボヘミアンのタロット』の挿絵では、右手に火の付いた笏を持っています。


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ボヘミアンのタロット』より「15:悪魔」

The figure as a whole is not particularly evil; it has no tail, and the commentators who have said that the claws are those of a harpy have spoken at random.
全体として(悪魔の)像は特に邪悪なものではない。それは尻尾を持っていないし、鉤爪がハーピーのものであると言った解説者は、でたらめなことを言っていた。

 尻尾を持っていないので、悪ではないという根拠については、よくわかりませんけど、いずれにしても、悪魔=邪悪という善悪二元論的なものでは無いということですよね。
 なお、鉤爪がハーピーのものであるという記述は、ジェブラン氏の『原始の世界』にあります。

There is no better ground for the alternative suggestion that they are eagle's claws.
それらがワシの鉤爪であるという別の提案の根拠として良いものは無い。

 ワシの鉤爪という記述は、マサース氏の『タロット』にあります。
 まあ、これをワシの鉤爪と断定するのも、いろいろと無理があるということです。
 結局のところ、この悪魔像の正体は不明であるということですかね。

Attached, by a cord depending from their collars, to the pedestal on which the figure is mounted, are two small demons, presumably male and female.
彼ら(小さい悪魔)の首輪から(中央の悪魔の)像が据えられた台座まで紐で結ばれているのは、2人の小さい悪魔で、おそらく男と女である。

 悪魔像は、両性具有で中性的な感じのものが多いのですが、下の2人は男女の区別があるものが多いです。

These are tailed, but not winged.
これら(小さい悪魔)には、尾が付けられているが、翼は付けられていない。

 より低い階層で、より獣的な存在としての姿を表しているんですかね。

Since 1856 the influence of Eliphas Levi and his doctrine of occultism has changed the face of this card, and it now appears as a pseudo-Baphometic figure with the head of a goat and a great torch between the horns; it is seated instead of erect, and in place of the generative organs there is the Hermetic caduceus.
1856年以来、エリファス・レヴィの影響と彼の神秘主義の教義は、このカードの表面を変えていて、そして今は、角(ツノ)の間にヤギの頭と大きな松明を持つ、偽のバフォメットの姿として現れている。それは直立する代わりに座っており、そして、生殖器のところには、ヘルメスのカドケウスの杖がある。

 この1856年というのは、おそらく1854年に発行されたレヴィ氏の『高等魔術の教理と祭儀』のことだと思います。
 とりあえず、そういう構図の挿絵を貼っておきます。


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高等魔術の教理と祭儀』より「バフォメット(メンデスの山羊)」

In Le Tarot Divinatoire of Papus the small demons are replaced by naked human beings, male and female, who are yoked only to each other.
パピュスの「タロット占い」では、小さい悪魔は、裸の人間、男と女に代わり、彼らは、お互いの間だけにくびきをかけられている。

 とりあえず、パピュス氏の『タロット占い』の挿絵を貼っておきます。


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タロット占い』より「15:悪魔」

The author may be felicitated on this improved symbolism.
著者は、この改良された象徴主義で祝辞を述べられるであろう。

 ウェイト氏は、これはいい改良だと言いたいわけですね。
 悪魔による人の支配よりも、人間の男女がお互いに鎖で縛りあってる状態こそが悪魔的であると言いたいのかも。(笑)



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従来(マルセイユ版)の塔

16. The Tower struck by Lightning.
16. 「稲妻に打たれた塔」。

 この「The Tower struck by Lightning/稲妻に打たれた塔」というタイトルは、おそらくレヴィ氏の『高等魔術の教理と祭儀』のものです。

Its alternative titles are: Castle of Plutus, God's House and the Tower of Babel.
別の表題は、「プルートスの城」、「神の家」、そして「バベルの塔」である。

 「プルートスの城」はジェブラン氏の『原始の世界』、「神の家」はマルセイユ版での一般的な名前、そして「バベルの塔」は『高等魔術の教理と祭儀』の中にあります。

In the last case, the figures falling therefrom are held to be Nimrod and his minister.
最後の場合(バベルの塔)では、そこから落ちる人物は、ニムロデと彼の大臣であると考えられている。

 この記述も、『高等魔術の教理と祭儀』の中にあります。
「Nimrod/ニムロデ」は、『旧約聖書:創世記』10:8に出てくる、バベルの塔を作った王ですね。

It is assuredly a card of confusion, and the design corresponds, broadly speaking, to any of the designations except Maison Dieu, unless we are to understand that the House of God has been abandoned and the veil of the temple rent.
これは、確実に混乱のカードであり、「神の家」を除けば、大まかに言うと、図案はその称号のどれにも対応している。もっとも、我々が「神の家」がすでに見捨てられており、寺院を覆い隠すものが引き裂かれていたことを理解しているということであれば話は別だが。

 このカードは混乱を表すカードであるということです。
 そして、「神の家」と呼ばれていたものは、実のところ「偽りの神の家」を示唆しているということですね。

It is a little surprising that the device has not so far been allocated to the destruction of Solomon's Temple, when the lightning would symbolize the fire and sword with which that edifice was visited by the King of the Chaldees.
この図案が今までのところ、稲妻がその大建築がカルデアの王により襲われた火と剣を象徴したであろう時のソロモン宮殿の破壊に割り当てられていないのは、少し驚くべきことである。

 ここは、『旧約聖書:列王記』25:9の、エルサレムにあった神殿破壊のシーンです。



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従来(マルセイユ版)の星

17. The Star, Dog-Star, or Sirius, also called fantastically the Star of the Magi.
17. 星、犬星、またはシリウス、そしてまた幻想的に「魔術博士の星」と呼ばれる。

 「Dog-Star/犬星」は、ジェブラン氏の『原始の世界』にあり、おおいぬ座のシリウスのことを指します。
 「Star of the Magi/魔術博士の星」は、P.クリスチャン氏の『魔術の歴史と実践』にあり、これは、ベツレヘムの星ですかね。

Grouped about it are seven minor luminaries, and beneath it is a naked female figure, with her left knee upon the earth and her right foot upon the water.
その回りに集団となった、7つの小さな発光体があり、下には、それは裸の女性の姿があり、彼女の左ひざは大地の上にあり、彼女の右足は水の上にある。

 「7つの小さな発光体」ですが、7つの○○というのは『新約聖書:ヨハネ黙示録』の中でも繰り返し出てくる神秘数のモチーフです。
 「7つの惑星」という説もありますが、ちょっとイメージ的に違う感じですよね。

She is in the act of pouring fluids from two vessels.
彼女は2つの容器から液体を注いでいる最中である。

 「14:節制」のカードとは違って、大地に2つの容器の水を注いでいます。

A bird is perched on a tree near her; for this a butterfly on a rose has been substituted in some later cards.
鳥は彼女の近くに木にとまっている。いくつかの後のカードでは、バラの上の蝶が、これに代わって置き換えられた。

 マルセイユ版は、基本的に鳥です。
 しかし、ジェブラン氏の『原始の世界』には、鳥ではなくて、「花の上の蝶」という記述があります。
 レヴィ氏や、ポール・クリスチャン氏なども「蝶」を推しており、パピュス氏の『ボヘミアンのタロット』のカード挿絵(オズワルト・ウィルト版)は、それらの影響を受けています。


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ボヘミアンのタロット』より「17:星」

So also the Star has been called that of Hope.
それで、星は「希望の星」とも呼ばれていた。

 星自体を「Hope/希望の星」として崇拝するのは、よくある風習ですよね。
 日本でも、「期待の星」とか「巨人の星」とか「スター誕生」とか。

This is one of the cards which Court de Gebelin describes as wholly Egyptian--that is to say, in his own reverie.
これ(このカード)は、クール・ド・ジェブランが、完全にエジプトのもの…いわゆる彼自身の空想であったが…と述べたカードの1つである。

 ジェブラン氏は『原始の世界』で、このカードを、シリウスとイシスとナイル側の氾濫に結びつけています。
 もちろん、そうでは無いと、ウェイト氏は考えています。



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従来(マルセイユ版)の月

18. The Moon.
18. 月
Some eighteenth-century cards shew the luminary on its waning side; in the debased edition of Etteilla, it is the moon at night in her plenitude, set in a heaven of stars; of recent years the moon is shewn on the side of her increase.
いくつかの18世紀のカードは、欠けていく側の発光体(月)を表している。エッティラの劣悪な版では、それは満月の夜の月であり、星の天空に配置されている。近年では、月は満ちていく側で表されている。

 ジェブラン氏の『原始の世界』の挿絵では、欠けていく側(下弦)の月。エッティラ版は満月。古いマルセイユ版のジャン・ノブレ版ジャック・ヴィーブル版ジャン・ドダル版は中央から欠けている月。そして新しいマルセイユ版のニコラ・コンヴェル版は、満ちていく側(上弦)の月です。
 ウェイト氏は、満ちていく側(上弦)の月を、ライダーウェイト版に採用しています。

In nearly all presentations she is shining brightly and shedding the moisture of fertilizing dew in great drops.
ほとんど全ての表現では、彼女(月)は、明るく輝いていて、大きな雫の中に(大地を)肥沃にする露の水分を降らせている。

 月の光と、夜露を浴びて、生物が育っていくという感じの表現ですね。

Beneath there are two towers, between which a path winds to the verge of the horizon.
下の方に2つの塔があり、その間に、小道が地平線の端へと曲がりくねっている。

 この2つの塔というのは、「2:高等女司祭」や「8:正義」のカードにある神殿の2本の柱を連想させます。

Two dogs, or alternatively a wolf and dog, are baying at the moon, and in the foreground there is water, through which a crayfish moves towards the land.
2匹の犬、またあるいはオオカミと犬が、月に向かって吠えていて、そして前景には水があり、そこからザリガニが陸に向かって動いている。

 ここは、見たままですね。



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従来(マルセイユ版)の太陽

19. The Sun.
19. 太陽
The luminary is distinguished in older cards by chief rays that are waved and salient alternately and by secondary salient rays.
発光体(太陽)は、より古いカードにおいては、波状に、交互に突き出した主光線と、そして突き出した副光線により区別される。

「salient/突き出た」というのは、光線が尖った三角形のような形で突き出ている状態を示しています。

 タロットカードの「luminary/発光体」には、「17:星」、「18:月」、「19:太陽」がありますが、この「19:太陽」においては、波状に突き出た主光線と直線的に突きだした副光線が、特徴となっているということですね。

It appears to shed its influence on earth not only by light and heat, but--like the moon--by drops of dew.
それは、光と熱によってだけでなく、…月のように…露の雫によって地球上にその影響を降らせているように見える。

 「18:月」のカードにあるような雫が、従来の「19:太陽」のカードにも見られます。
 ただし、ウェイト氏は気に入らないようで、ライダーウェイト版では、この雫は省略されていますね。

Court de Gebelin termed these tears of gold and of pearl, just as he identified the lunar dew with the tears of Isis.
クール・ド・ジェブランは、ちょうど彼が月の露をイシスの涙と同一視したのと同じように、これらの涙が金と真珠であると称した。

 ジェブラン氏は『原始の世界』の中で、この光線のことを、金の涙と真珠であるとしています。

Beneath the dog-star there is a wall suggesting an enclosure--as it might be, a walled garden--wherein are two children, either naked or lightly clothed, facing a water, and gambolling, or running hand in hand.
犬星の下の方には、囲いを暗示する壁…壁に囲まれた庭園であるかもしれないが…があり、その中で、裸もしくは軽装の2人の子供が、水に直面して飛び跳ねているか、手に手をとって走っているところである。

 ここでは、ジェブラン氏の絵を、皮肉まじりに説明しています。
 ウェイト氏によると、手前にあるのは、水だそうです。
 また、太陽のシンボルを「dog-star/犬星」と呼んでいますが、これはジェブラン氏がこのカードもエジプト由来のものと言っていることを皮肉っているような感じです。


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原始の世界』の「19:太陽」

Eliphas Levi says that these are sometimes replaced by a spinner unwinding destinies, and otherwise by a much better symbol--a naked child mounted on a white horse and displaying a scarlet standard.
エリファス・レヴィは、これらは時々、運命を解きほどく紡績工に、および別のものでは、より良い象徴…白馬に乗って緋色の紋章旗を掲げた裸の子供…に取り替えられていると言っている。

 レヴィ氏は、『高等魔術の教理と儀式』の中で、このカードの過去のデザインについて、以下の3つのパターンについて言及しています。
  (1)輝く太陽と、要塞の囲いのなかで手をつなぐ二人の裸の子供。
  (2)運命の糸を紡ぐ女。
  (3)白馬に跨り、深紅の旗をかざす一人の裸の子供。

 ウェイト氏は、ライダーウェイト版では、この(3)を採用しています。



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従来(マルセイユ版)の審判

20. The Last judgment.
20. 最後の審判。
I have spoken of this symbol already, the form of which is essentially invariable, even in the Etteilla set.
私は既に、この象徴について話しており、その形態は本質的には不変であり、エッティラのセットにおいてさえもである。

 歴史的に見ても、さほど変化していないデザインであるということですね。
 とりあえず、エッティラ版を参考として以下に貼っておきます。


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エッティラ版の「16:(審判)」

An angel sounds his trumpet per sepulchra regionum, and the dead arise.
天使は彼のラッパを「世界中の墓に」吹き鳴らし、そして死者は起き上がる。

 「per sepulchra regionum/世界中の墓に」はラテン語で、レクイエム(Requiem, 死者のためのミサ曲)に出てくる一節をネタにしたものです。
 ちなみに、レクイエムは、『新約聖書:ヨハネ黙示録』を元ネタにしています。

It matters little that Etteilla omits the angel, or that Dr. Papus substitutes a ridiculous figure, which is, however, in consonance with the general motive of that Tarot set which accompanies his latest work.
エッティラが天使を省略しているとか、もしくはパピュス博士がばかげた人物像に取り替えたとかいうことは、あまり重要ではない。とはいえ、それ(ばかげた人物像)は、彼の最近の著作に添付されているそのタロットのセットの全体的な動機と調和している。

 エッティラ版の天使像は、おっぱい晒した女性像なので、これを天使と言うには自由すぎるデザインなんですよね。
 そして、パピュス氏も、エッティラ版と同じように、この天使のデザインを改変していますが、それは、このタロットの全体をエッティラ風に改変するという動機のために、あえてそのような人物像にしたということです。


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パピュス氏の『タロット占い』の「20:審判」

Before rejecting the transparent interpretation of the symbolism which is conveyed by the name of the card and by the picture which it presents to the eye, we should feel very sure of our ground.
カードの名前と、それが目に提示する絵によって伝えられる象徴主義の明白な解釈を拒絶する前に、私たちは、私たちの基礎が非常に確かであることを感じるべきである。

 「最後の審判」というのは、オカルト的にもポピュラーなモチーフですので、変にひねった解釈をしなくても、見ての通りの解釈で、問題ないんじゃないかということのようです。

On the surface, at least, it is and can be only the resurrection of that triad--father, mother, child--whom we have met with already in the eighth card.
表面上は、少なくとも、それは、我々が既に8番目のカードの中で出会った、その三つ組…父と母と子…の復活であり、そして唯一可能なものである。

 これは、8番目のカードではなく、おそらく「6:恋人たち」ですね。
 前に出ていた「6:恋人たち」の解説では、父親と母親と子供という記述があります。

M. Bourgeat hazards the suggestion that esoterically it is the symbol of evolution--of which it carries none of the signs.
ブウジャ氏は、それは秘教的には進化の象徴…それは、そういった記号は何も持っていないが…であると、思い切って言っている。

 ブウジャ氏は、『タロット:歴史の概要』という本を書いています。
 とりあえず言ってみるだけで、何もフォローしないのが、この世界ですけどね。

Others say that it signifies renewal, which is obvious enough; that it is the triad of human life; that it is the "generative force of the earth... and eternal life."
他の者は、それは再生を意味すると言っており、それは十分に明白である。それは人間の生命の三つ組である。それは「地球…と永遠の生命…の発生の力」である。

 他の者は、おそらくポール・クリスチャン氏の『魔術の歴史と実践』で、このカードを「The Awakening of the Dead: Renewal/死者の目覚め(復活):再生」と呼んでいます。
 「triad of human life/人間の生命の三つ組」というのは、レヴィ氏の『高等魔術の教理と祭儀』にあります。
 キリスト教の世界では、父と子と聖霊で三位一体(さんみいったい)ですが、人間の世界では父と母と子で三位一体ということですかね。
 まあ、人により、色々な解釈をされているということですよね。

Court de Gebelin makes himself impossible as usual, and points out that if the grave-stones were removed it could be accepted as a symbol of creation.
クール・ド・ジェブランは、いつものように彼自身を不可能にして、もし墓石が取り除かれるならぱ、創造の象徴としてそれを認めることができると指摘している。

 「makes himself impossible/彼自身を不可能にして」というのは、「わけわからない理解不能なことを言っている」という感じです。
 ジェブラン氏は、タロットのエジプト派ですので、キリスト教的な最後の審判をモチーフにすることを嫌っていたようですね。
 ジェブラン氏は、墓石の無いものは、「創造、時間内の到着、時間の始まり」という意味を持つと言っています。
 ちなみに、マルセイユ版には墓が描かれていますが、エッティラ版やパピュス氏の『タロット占い』は、ジェブラン氏の意見に沿って、墓石は描かれていません。



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従来(マルセイユ版)の愚者

21--which, however, in most of the arrangements is the cipher card, number nothing--The Fool, Mate, or Unwise Man.
21. …けれどもそれは、大多数の配列では、ゼロのカード、番号無しである…「愚者」、「仲間」、または「知恵の無い人」。

 とりあえずここでは、21番目としていますが、大多数はゼロか無番号だということです。
 ウェイト氏が、わざわざ「0:愚者」を21番として紹介しているのは、また別の意図があるということですよね。

Court de Gebelin places it at the head of the whole series as the zero or negative which is presupposed by numeration, and as this is a simpler so also it is a better arrangement.
クール・ド・ジェブランは、数値解釈により前提とされるゼロか否定として、全ての系列の先頭にそれを置いている。そして、それはより簡単であるのと同じように、それはまた、より良い配列でもある。

 ウェイト氏は、0番もしくは値無しのカードを、全ての始まりであるトップに置くというのは、いい考えだと述べています。
 シンプルなものが、結果的には一番優れているというのは、よくあることですよね。

It has been abandoned because in later times the cards have been attributed to the letters of the Hebrew alphabet, and there has been apparently some difficulty about allocating the zero symbol satisfactorily in a sequence of letters all of which signify numbers.
後の時代に、カードがヘブライのアルファベットの文字に帰せられたために、それは放棄され、そして、それのすべてが数字の意味を有する文字の系列に、納得のいくようにゼロの象徴を割り当てることに関しては、見たところ、いくつかの異議があった。

 ヘブライ文字は、数字としても使われており、各々の文字にはゼロではない数値が割り当てられています。
 そこに、ゼロであることが明記されたカードを配属させることについては、色々と異論が続出しているということです。

In the present reference of the card to the letter Shin, which corresponds to 200, the difficulty or the unreason remains.
200に対応する文字シンへのカードの現在の関連性においては、困難もしくは不合理が残っている。

 ちなみに、「0:愚者」に配属されたヘブライ文字は、いくつか説があります。いつもの、フランスの古典派とイギリスの改革派の対立図式ですよね。
  ・レヴィ/パピュス説: シン(歯)、数値は300
  ・ゴールデン・ドーン説:アレフ(牛)、数値は1

The truth is that the real arrangement of the cards has never transpired.
真実は、カードの本当の配置が、いまだに明らかになっていないということである。

 結局のところ、きちんとした結論は、まだ出ていないということです。
 まあ、現代でも、統一的な結論は出ていませんけどね。

The Fool carries a wallet; he is looking over his shoulder and does not know that he is on the brink of a precipice; but a dog or other animal--some call it a tiger--is attacking him from behind, and he is hurried to his destruction unawares.
愚者は、道具袋を携えている。彼は自分の肩越しに見上げていて、彼が絶壁の瀬戸際にいることを知らない。しかし、犬あるいは他の動物…ある者は、それを虎と呼んでいるが…が、後ろから彼を攻撃していて、そして彼は不注意で自分の破滅を急がされている。

 それを「虎」と呼ぶのは、ジェブラン氏の『原始の世界』や、レヴィ氏の『高等魔術の教理と祭儀』にありますが、どう見ても虎には見えないですよね。


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原始の世界』より「0:愚者」の虎?

Etteilla has given a justifiable variation of this card--as generally understood--in the form of a court jester, with cap, bells and motley garb.
エッティラは、…一般に理解されているように…帽子と鐘と雑色の衣装を持つ宮廷道化師の形態で、このカードの正当な変化を与えた。

 「court jester/宮廷道化師」は、雇用主の笑顔と心の安らぎのために働く、プロフェッショナルなエンターティナー(←カタカナ書きにすると、ちょっとカッコイイ)です。
 今までの浮浪者みたいな「愚者」とは、全く異なる解釈と言ってもいいですよね。
 もちろん、ウェイト氏は、それに飽きたらず、さらに進化した「愚者像」を考えています。


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エッティラ版の「0:愚者」

The other descriptions say that the wallet contains the bearer's follies and vices, which seems bourgeois and arbitrary.
他の説明では、道具袋は運搬人の愚かさと悪徳が入っていると言っているが、それは中産階級的であり勝手気ままに見える。

 「wallet contains the bearer's follies and vices/道具袋は運搬人の愚かさと悪徳が入っている」の部分は、レヴィ氏の『高等魔術の教理と祭儀』の解説です。
 「bourgeois/中産階級的の」というのは、俗物で無教養の中産階級の実業家や商売人みたいな感じですね。
 エッティラが新しい解釈を提示したのに、レヴィ氏の「愚者」の解釈は、古典的なものに戻ってしまったということですよね。



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従来(マルセイユ版)の世界

22. The World, the Universe, or Time.
22. 「世界」、「宇宙」、もしくは「時間」。
The four living creatures of the Apocalypse and Ezekiel's vision, attributed to the evangelists in Christian symbolism, are grouped about an elliptic garland, as if it were a chain of flowers intended to symbolize all sensible things; within this garland there is the figure of a woman, whom the wind has girt about the loins with a light scarf, and this is all her vesture.
キリスト教象徴主義で福音書の著者に帰属される、黙示録とエゼキエルの幻視の4つの生き物が、楕円形の花輪の回りに配置されており、まるでそれはすべての知覚できる物事を象徴することを意図する花の鎖であるかのようである。この花輪の中には女性の姿があり、風はその女性に、軽いスカーフを腰のあたりで巻きつけており、そしてこれが彼女の衣服の全てである。

 ここは、『旧約聖書:エゼキエル書』1:10の「彼らの顔かたちは、人間の顔であり、四つとも、右側に獅子の顔があり、四つとも、左側に牛の顔があり、四つとも、うしろに鷲の顔があった。」という部分と、『新約聖書:ヨハネ黙示録」4:7の「第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。」の部分が元ネタです。
 また、4つの生き物は、新約聖書の四福音書を書いたマタイ(有翼の人間)、ヨハネ(鷲)、ルカ(牡牛)、マルコ(獅子)にも象徴として使われています。

 ライダーウェイト版の「10:運命の輪」にも同じように4つの生き物が出てきますので、参考にしてください。

She is in the act of dancing, and has a wand in either hand.
彼女は、踊っている最中であり、どちらの手にも棒を持っている。

 当時のカードデザイン的には、両方の手に棒を持つのは少数派で、左手に1本持っているものが多数派です。
 魔術系のレヴィ氏、パピュス氏は両手派でしたので、ウェイト氏も、両手のデザインを採用しています。

It is eloquent as an image of the swirl of the sensitive life, of joy attained in the body, of the soul's intoxication in the earthly paradise, but still guarded by the Divine Watchers, as if by the powers and the graces of the Holy Name, Tetragammaton, --those four ineffable letters which are sometimes attributed to the mystical beasts.
それは、感受性の強い生命の渦巻や、肉体で達成された喜びや、地上の楽園において、しかしまだ神の番人により守護されている魂の陶酔のイメージとして、まるで、聖なる名前、聖四文字、…時々神秘的な獣に帰せられる、それらの4つの口にしてはならない文字である…の、力と恩寵によるかのように、雄弁に表している。

 というのは、言葉にしてはならない神の名前であり、聖四文字と呼ばれています。

Eliphas Levi calls the garland a crown, and reports that the figure represents Truth.
エリファス・レヴィは、花輪を王冠と呼び、そして人物像が「真実」を表すと報告している。

 レヴィ氏は『高等魔術の教理と祭儀』の中で、花輪を王冠、すなわち「1:ケテル」に関連付けています。

Dr. Papus connects it with the Absolute and the realization of the Great Work; for yet others it is a symbol of humanity and the eternal reward of a life that has been spent well.
パピュス博士は、それを「絶対的存在」と「偉大なる作業」にそれを関連付けている。 しかし、他の者にとって、それは、人間的属性の象徴と、よく費やされた人生の永遠の報酬である。

 パピュス氏のこの主張は、『ボヘミアンのタロット』にあります。
 他の者というのは、おそらくはポール・クリスチャン氏の『魔術の歴史と実践』のことで、修行を積んで最高の位階に達した魔術師の薔薇の花輪の冠であり、報酬であると述べています。

It should be noted that in the four quarters of the garland there are four flowers distinctively marked.
はっきりと印を付けられた4つの花が、花輪の4つの4分の1にあることに、注目すべきである。

 この花輪の世界は、4つに分割されているという象徴ですよね。
 ジェブラン氏は、右上の鷲を春、右下の獅子を夏、左下の牛を秋、左上の人を冬に配属しています。
 パピュス氏は、左上を棒(火)、左下を杯(水)、右上を五芒貨(地)、右下を剣(空気)に配属しています。

According to P. Christian, the garland should be formed of roses, and this is the kind of chain which Eliphas Levi says is less easily broken than a chain of iron.
P.クリスチャンによると、花輪はバラによって形成されるべきであり、そしてこれは、エリファス・レヴィが鉄の鎖よりも容易に壊れないと言う鎖の種類である。

 物理的な鉄の鎖よりも、バラの鎖の方が強いということですかね。
 また、レヴィ氏は、『大いなる神秘の鍵』の中で、「鉄の鎖は、花の鎖よりも壊すことが簡単である」と述べています。


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ポール・クリスチャン氏の『魔術の歴史と実践』より「魔術師の王冠」

Perhaps by antithesis, but for the same reason, the iron crown of Peter may he more lightly on the heads of sovereign pontiffs than the crown of gold on kings.
おそらく正反対により、しかし同じ理由から、王たちの金の王冠よりも、至高のローマ教皇の頭に載るペテロの鉄の王冠の方が、軽いのであろう。

 ペテロは最初のローマ教皇ですが、その冠は「5:法王」にあるような三重冠であり、「iron crown/鉄の王冠」ということではないです。
 ここでいう「鉄の王冠」は、おそらく聖遺物である「ロンバルディアの鉄王冠」というものをネタにしていると思いますが、ここは比喩的に、俗物的な黄金の王冠よりも、神聖なる鉄の王冠の方が、はるかに霊的な価値が高いということを言っているのだと思います。
 とはいえ、実物の「鉄王冠」は、金では買えない貴重な聖遺物なんですけどね。


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