ライダーウェイト・タロット解説

PART III: The Outer Method of the Oracles
聖なる書物の外陣
§1 Distinction between the Greater and Lesser Arcana
大アルカナと小アルカナとの差異


 さて、このPartVのタイトルは、「The Outer Method of the Oracles/聖なる書物の外陣」です。
 「Oracles/聖なる書物」は大アルカナという聖なる内陣であり、小アルカナはその「The Outer Method/外陣」、つまり、一段レベルが下がった、俗なる領域の存在ということになります。

 なお、このPartVは、占いに関する記述がメインになっていますので、この部分だけを見て、この本やライダーウェイト版タロットが「占いの初心者向き」と言われることがありますが、全体をしっかりと読めば、それは大きな誤解ということが分かるんですけどね。
 というか、一般人には理解できないような上級レベルのオカルトネタを、本編のPartUに書くウェイト氏も悪いんですけど。(笑)
 というわけで、ここから先は、占いの初心者でもわかるレベルのネタになっています、というか、ウェイトさんは、本編が終わったので、完全に手を抜いて仕事をしています。(笑)

IN respect of their usual presentation, the bridge between the Greater and Lesser Arcana is supplied by the court cards--King, Queen, Knight and Squire or Page; but their utter distinction from the Trumps Major is shewn by their conventional character.
通常の説明という点では、「大アルカナと小アルカナ」の間の架け橋は、コートカード(人物札)、すなわち「王」、「女王」、「騎士」、および「従者あるいは騎士見習」によって与えられている。しかし、それらのカードの、「大アルカナ」からの完全な差違は、それらの従来からの特徴により示されている。

 「court card/コートカード」というのは、「宮廷内に住む人々のカード」という意味です。
 ですので、王、女王、騎士(家臣)、そして見習騎士(使用人)という人々が現れるわけですね。
 他の種類のタロットカードでは、王、女王、王子、王女という、王家の身内で固めたものもあります。

 ウェイト氏は、当時の解釈である「コートカードは、大アルカナと数札の間の架け橋である」との見解を拒否し、「コートカードと大アルカナは、全くの別物だよ」と言いたいわけです。
 確かに、マルセイユ版などの従来デザインのコートカードは、かなりシンプルな構成になっていて、ほとんど神秘主義的な象徴を含んでいませんし、タロットカードの歴史的な経緯からも、全くの別物であることがわかっています。

Let the reader compare them with symbols like the Fool, the High Priestess, the Hierophant, or--almost without exception--with any in the previous sequence, and he will discern my meaning.
読者に、「愚者」や「高等女司祭」や「法王」、あるいは…ほとんど例外なく…前の系列(大アルカナ)のどのようなものでも、そのような象徴と、それら(コートカード)を比較させてみれば、彼は私が意味するものを理解するであろう。

 「the previous sequence/前の系列」というのは、このPartVの前に出てきたPartUで解説している大アルカナの並びのことを指します。

 で、ここでいきなり、この本の読者に問いかけていますね。
 ウェイト氏は、あれこれ説明するのも面倒なので、まずは大アルカナをきちんと見ておいてくれよ、と言っているのです。論より証拠、百聞は一見にしかずということですよね。
 ある程度、タロットを理解している者であれば、大アルカナとコートカードとは、あらゆる部分で違いがあるということが判るということです。

There is no especial idea connected on the surface with the ordinary court cards; they are a bridge of conventions, which form a transition to the simple pretexts of the counters and denaries of the numbers following.
表面上では、(大アルカナが)通常のコートカードと結びつけて考えられる特別な意見は無い。それらは慣習的な架け橋であり、それらは以下に続く数取りもしくは数札の10枚たちの単純な口実への推移を形成するものである。

 「counters/数取り」というのは、カードゲームでの得点を数えるチップで、マージャンの点棒のような役割のものです。
 また、ゲームで使う「駒」という意味もあります。
 「denaries of the numbers/数札の10枚たち」は、タロットの数札が10枚ある(Ace,2〜10)ということを指します。
 ここは、小アルカナの数札は、ゲームや賭博などの駒や点数計算の材料にされていて、その程度の重要性しか無いよという意味の言葉ではないかと思われます。

 で、コートカードは、あくまでも「bridge of conventions/慣習的な架け橋」であり、大アルカナと繋がっているという特別な根拠は無いよ、と主張しています。

We seem to have passed away utterly from the region of higher meanings illustrated by living pictures.
私たちには、活き活きとした絵によって描かれた、より高い意味の領域から完全に終わっているように見える。

 コートカードに描かれた絵は、大アルカナの神秘的象徴としての絵と比較すると、完全に別次元の、とっても低い領域にあると言っているわけです。
 コートカードは他の小アルカナの数札と大して違わない低いレベルにあるということですね。

There in was a period, however, when the numbered cards were also pictures, but such devices were sporadic inventions of particular artists and were either conventional designs of the typical or allegorical kind, distinct from what is understood by symbolism, or they were illustrations--shall we say?--of manners, customs and periods.
しかしながら、数札もまた絵だった時が、ある時期に存在した。しかし、そのような表現技法は特定の芸術家の散発的な発明であって、象徴主義によって理解されるものとは異なる、典型的もしくは寓意的な種類の従来の図案、あるいは、それらは風習、慣習、および当時(の時代絵)の挿し絵のようなものだったと言いましょうか。

 コートカードには通常、人物絵が描かれています。実は、数札にも「それっぽい絵」みたいなものが描かれた時もあったけれども、それは大アルカナのように人類共通意識のオカルト的象徴主義やそれなりの理論に基づくものではなくて、個人的な思いつきによる、より俗的で身の回りの事物を挿し絵的に描いたものだと主張しています。
 これはおそらく、ソラ・ブスカのタロットのことを指しています。

They were, in a word, adornments, and as such they did nothing to raise the significance of the Lesser Arcana to the plane of the Trumps Major; moreover, such variations are exceedingly few.
それらは、要するに装飾品である。またそのように、それらは、「大アルカナ」の水準に「小アルカナ」の重要性を上げるためには何もしておらず、さらに、そのような変化は非常に少数である。

 結局のところ、数札も含めて、小アルカナに描かれた絵については、あまり意味の無い飾りであって、大アルカナのレベルとは全く別次元のものだということです。

This notwithstanding, there are vague rumours concerning a higher meaning in the minor cards, but nothing has so far transpired, even within the sphere of prudence which belongs to the most occult circles; these, it is true, have certain variants in respect of divinatory values, but I have not heard that in practice they offer better results.
これにもかかわらず、小アルカナのカードの中のより高い意味に関する漠然とした流言があるが、大部分の魔術団体に属する思慮の階級の中でさえも、これまでに知れ渡ったものは何もない。これら(小アルカナ)は、占いの価値に関しては、ある程度の差異を持っている、というのは真実であるが、しかし私は、実際上、それらがよりよい結果を提示するとは聞いていない。

 「sphere of prudence/思慮の階級」というのは、魔術団体の内陣、つまり指導者階級を示すものではないかと思われます。
 つまり、色々な魔術団体においては、小アルカナの神秘主義的解釈は、今のところ特筆するような共通認識は存在していないという結論のようです。

 一方、占いの世界においては、小アルカナを神秘主義的に拡大解釈しようする者もいたようですが、それが有用であるとは聞いていないということですかね。

Efforts like those of Papus in The Tarot of the Bohemians are strenuous and deserving after their own kind; he, in particular, recognizes the elements of the Divine Immanence in the Trumps Major, and he seeks to follow them through the long series of the lesser cards, as if these represented filtrations of the World of Grace through the World of Fortune; but he only produces an arbitrary scheme of division which he can carry no further, and he has recourse, of necessity, in the end to a common scheme of divination as the substitute for a title to existence on the part of the Lesser Arcana.
「ボヘミアンのタロット」の中でのパピュスのそれらの(小アルカナを神秘主義的に解釈する)ような努力の成果は、精力的であり、彼ら自身の性質の後を追う価値のあるものである。特に、彼は「大アルカナ」の中の「神の内在」の要素を認識し、また彼は、小アルカナの長い連続物を通じてそれら(それまでの成果)に従うように探求している。それはあたかも、「運命(占い)の世界」を通じて「恩寵(神)の世界」の濾過を表現できるかのように。しかし、彼は彼がもうそれ以上到達できない部分の独断的な体系を作り出しただけであり、彼は「小アルカナ」の部分が存在する資格の代用として、必要に迫られて、結局は占いの普通の体系に頼っている。

 ウェイト氏は、パピュス氏の有名な著作である『ボヘミアンのタロット』を基本として、さらに進化したものを目指しているようです。
 パピュス氏は、大アルカナのオカルト的解釈については、かなり詳細に論じていますが、小アルカナについては、取って付けたような解説しかしていません。
 そして、パピュス氏が、結局のところ小アルカナの存在の意味付けに「占い」を持ち出さざるを得なかったことには、いまいち不満なようです。

 ちなみに、ウェイト氏自体は、占いというものに対して、大した価値を見い出してはいないようです。
 ウェイト氏は、当時あった魔術団体(最も有名なものは、ゴールデンドーン)のいくつかに属しており、タロット研究の知識も、それら団体の所有する資料や、そこに属する団員や研究者との意見交換なども元にしています。
 ウェイト氏の本業は、オカルト研究家というかオカルト誌の著述家だったのですが、占い師に対しては、あまり良い印象を持っていないようですね。
 まあ、昔も今も同じようなものであれば、そういう気持ちを持つのも分かるような気もしますけど。

Now, I am practically in the same position; but I shall make no attempt here to save the situation by drawing on the mystical properties of numbers, as he and others have attempted.
さて、私は実際のところ、(パピュス氏と)同じ状況にある。しかし、私は彼や他の者が試みたように、数の神秘的な性質を利用して、(小アルカナの)立場を救うことは、ここでは試みない。

 いわゆる「数秘術」と呼ばれているものは、使うつもりはない、ということですね。
 ただし、カバラや占星術には、少なからず数秘術的なものも入っていますので、完全に遮断するのは無理ですけど。

I shall recognize at once that the Trumps Major belong to the divine dealings of philosophy, but all that follows to fortune-telling, since it has never yet been translated into another language; the course thus adopted will render to divination, and at need even to gambling, the things that belong to this particular world of skill, and it will set apart for their proper business those matters that are of another order.
同時に、私は「大アルカナ」が、神を哲学的に扱うことに属するものであることを認識しているが、占いに追随するもの全てについては、その後も、それはまだ別の言語に翻訳されていない。このように採用された方針は、占いに与えられ、必要な時には賭博や、この特別の技術の世界に属するものにさえも与えられるだろう。そして、それは彼らの適切な仕事のために別々にされ、それらの問題は、別の階級に置かれるだろう。

 「all that follows to fortune-telling/占いに追随するもの全て」は、おそらく小アルカナを指していると考えられ、今のところ占い以外で活用できる意味は無いようです。

 大アルカナは、神性を取り扱うものであり、通常の言語体系だけで語れるものではありません。
 一方、小アルカナについては、神性とは全く関係の無い、別の世界で再構成された独自の言語体系の意味、つまり娯楽や金儲けに絡む、俗っぽい意味というものを持つことになるわけですかね。

In this free introduction to the subject in hand, it is only necessary to add that the difference between the fifty-six Lesser Arcana and ordinary playing-cards is not only essentially slight, because the substitution of Cups for Hearts, and so forth, constitutes an accidental variation, but because the presence of a Knight in each of the four suits was characteristic at one time of many ordinary packs, when this personage usually replaced the Queen.
取りかかってる主題についてのこの自由な序論において、56枚の「小アルカナ」と通常のトランプカードの間に違いを付け加えるたった一つの必要性は、「ハート」に対する「杯」の代用などの偶然の変化を構成するというというだけでなく、4つのスーツの各々にある「騎士」の存在は、かつての多くの通常のデッキの特徴であり、ある時この人物が通常は「女王」と取り替えられた、という本質的に軽微なものである。

 「this free introduction/この自由な序論」は、ここでは何でもかんでも、遠慮なく書いておくよ、ということですかね。

 さてここでちょっと、トランプカードの歴史の話になります。

 現在の標準的なトランプカードは、スペード(剣)、ハート、クラブ(棍棒)、ダイヤの4つのスートで、各スートは、A(エース),2〜10の数札、J(ジャック)、Q(クイーン)、K(キング)の13枚から構成されています。
 そして、J(ジャック)は、小アルカナのPage(騎士見習)に相当し、Knight(騎士)はありません。

 14世紀前半、ヨーロッパにトランプカードの原形が現れた頃のスートは、剣・カップ・貨幣・棍棒で、コートカードは、王(king)、騎士(chevalier or knight)、雇人(knave or servant)でした。
 実は、当初のカードには、騎士があって女王は無かったのです。
 14世紀後半、フランスではスートがダイヤ、スペード、ハート、クラブに変わり、騎士が女王と差し替えられて、今のトランプカードとほぼ同じ形になりました。
 参考までに、トランプカードのジョーカー(Joker)は、19世紀の後半になって追加されています。このジョーカーはタロットの愚者(Fool)に似ていますが、直接の関連は無いそうです。

In the rectified Tarot which illustrates the present handbook, all numbered cards of the Lesser Arcana--the Aces only excepted--are furnished with figures or pictures to illustrate-but without exhausting--the divinatory meanings attached thereto.
この手引書で図解している改正されたタロット(ライダーウェイト版)において、全ての「小アルカナ」の数札は、…エースのみ除いて…完全には研究し尽くされてはいないが、それに付随する占いの意味を説明する図や絵が備えられている。

 「the present handbook/この手引書」、これはこの「The PictorialKey to the Tarot」ですが、なせこんな表現をしているかというと、ウェイト氏は以前にも、このようなカード占いの手引書を書いているからですね。
 ちなみに、占い関係の著書についてはグランド・オリエント名義で、魔術関係の著書についてはウェイト名義で書いているようです。

 エースのカードは元々、ある程度の図案化が成されていましたので、残りの数札の2〜10に対して、大々的に図案化の試みが行われました。
 とはいえ、ウェイト氏は、大アルカナで採用した魔術系の意味ではなく、小アルカナでは占い系の意味を採用し図案化したので、このことが後々になって、様々な批判と誤解を受けるようになったのでした。

 なお、占い系の意味については、当時も今もかなり混乱してますが、この本には、その意味も含めて解説されていますので、ライダーウェイト版タロットを使った占いの際には、それに従った解釈をするのが基本となります。
 基本通りに占いをするのが苦手な人は、自分なりに解釈するというのでもいいのですが、その場合は、逆にこの絵が解釈の邪魔になる場合もあるので、絵の意味に縛られるのを嫌う人は、マルセイユ系を好む人もいるようです。

Some who are gifted with reflective and discerning faculties in more than the ordinary sense--I am not speaking of clairvoyance--may observe that in many of the Lesser Arcana there are vague intimations conveyed by the designs which seem to exceed the stated divinatory values.
通常の感覚を超えた中に、黙想的かつ洞察力のある能力を与えられている、ある人々は、…私は透視についての話をしているわけではないが…、「小アルカナ」の多くの中に、定まった占いの意味を越えるように見える図案によって伝えられる漠然とした暗示があると、注視するかもしれない。

 小アルカナの図案は、本来は占いの意味を表現したものであるけれども、一部の「何かが見える人々」は、その図案の中に、本来持つ意味を越えたものを見るかもしれないということですね。
 ここでは、透視の話をしているわけではないということですので、要するに、通常ではない「拡大解釈」をして根も葉もないうわさをする迷惑なヤツもいるようだが、というちょっとした揶揄の文章ですので、決して「オレには見えるぞ」という変な人の仲間にならないようにしましょう。(笑)

It is desirable to avoid misconception by specifying definitely that, except in rare instances--and then only by accident--the variations are not to be regarded as suggestions of higher and extradivinatory symbolism.
まれな場合を除いて、明確にそれを明記することによって誤解を避けることは、望ましいし、…それから、ほんの偶然にすぎないような…変化というものは、より高位で占い以外の象徴主義の提案とはみなされていない。

 小アルカナの絵は、あくまでも占いにおける意味を描いたもので、大アルカナのような高位の象徴主義というものは存在していない、ということですね。
 そして、たまに基本から外れて「variation/変化」のある意味を読み取ることもできるかもしれないけれど、そういうものは、神秘的象徴主義体系とは違うもので、さほど重要性は持っていないということです。

 実際のところ、占いが取り扱う世界というのは、理想的というよりも、かなり現実的なものですし、宗教的な神秘主義とは、かなり距離のあるものがほとんどです。
 ユダヤ・キリスト教のように、占いを禁止している宗教もありますしね。

 でも、占いは、その低俗性により、いつの世においても、人気があるのでした。
 人は、深遠な思想や理想論だけでは生きられない存在なのです。

I have said that these Lesser Arcana have not been translated into a language which transcends that of fortune telling.
私は、これらの「小アルカナ」は、占いの言葉を越えた言語には翻訳されていないと言っている。

 要するに、小アルカナは、今までずっと「占いの世界で語られているもの」の範囲内にあり、より上位概念である神秘性というものについては、その中に含まれているかどうかは分からないと言っているのですね。
 未来はどうなるかは分からないので、現在完了になっていますが、現代においても、小アルカナは占いの世界にとどまっているようです。

I should not indeed be disposed to regard them as belonging in their existing forms to another realm than this; but the field of divinatory possibilities is inexhaustible, by the hypothesis of the art, and the combined systems of cartomancy have indicated only the bare heads of significance attaching to the emblems in use.
実際のところ、私は、それら(小アルカナ)をこれ(占い)より別の領域の方が、それらの存在形式にとって適当であると考慮することを放棄すべきではない。しかし、(占いの)技術の仮説によれば、占いの可能性の分野は無尽蔵であるということであり、そして、カード占いと結合した方法は、使われている寓意画に属している意味の、むき出しの頭だけを示している。

 占いに頼りたくはないけど、とりあえず占いに頼ってみるしか他に手は無い、という感じの消極的擁護ですかね。

 とりあえずウェイト氏は、「カード占いと結合した方法」として、新たにデザインされたカード毎に、その「占いの意味」を羅列しています。
 その「占いの意味」も、「only the bare heads/むき出しの頭だけ」ということですので、単に主要項目だけを列挙しておくよ、という感じですかね。
 ヤル気が無いのか、ずいぶん手抜きしてますよね。(笑)

When the pictures in the present case go beyond the conventional meanings they should be taken as hints of possible developments along the same lines; and this is one of the reasons why the pictorial devices here attached to the four denaries will prove a great help to intuition.
この場合の絵が従来の(占いの)意味を越えるとき、それらは同じ道筋を通る、可能な拡張の暗示として受け取られなければならない。そしてこれは、4つの10枚たちに付けられている図案が、直観力の大きな手助けになることを証明する理由の1つである。

 絵によって直感力が刺激され、占いにおいて様々な解釈のバリエーションを生み出すことが可能となるということですね。
 ただし、占いの意味解釈は、新しい思いつきであっても、従来の意味から大きく外れてはならないということですね。

 なお、「four denaries/4つの10枚たち」というのは、小アルカナの4組ある10枚の数札(Ace〜10)のことを指します。
 従来のタロットは、数札はスートと数字を示す単純な図案でしたが、ウェイト氏はこれらを大アルカナやコートカードと同じように、カードの意味を象徴する絵札としました。

The mere numerical powers and bare words of the meanings are insufficient by themselves; but the pictures are like doors which open into unexpected chambers, or like a turn in the open road with a wide prospect beyond.
意味の単なる数字の力およびむき出しの言葉は、それだけでは不十分である。しかし、絵は、予期しない部屋に通じているドア、あるいは広い予想以上に広々とした道の散歩に似ている。

 従来の小アルカナのように、単なる「数字」を示した絵と、カードの意味を説明する「言葉」だけでは、占いの意味を持たせるにしても、充分ではないと言っているわけですね。
 そして、新たに付けられた「絵」の効果というのは、予想以上に絶大で、直感力を働かせることにより、別の世界へと向かうことができる可能性があると言っています。
 これぞ、自画自賛というやつですね。(笑)

 まあ、良かれ悪しかれ、ウェイト氏の小アルカナは、「数字」や「言葉」だけでなく、「それっぽい絵」が描かれているところがポイントです。
 ウェイト氏は、小アルカナには占い以外の深い意味は込められていないと言っているわけですが、この絵をどう解釈するかは、最終的には読者に任せられているということですね。
 というわけで、小アルカナの詳しい解釈、つまり占いの際の詳しい解釈については、完全に読者に丸投げ状態の、ほとんどヤル気の無いウェイト氏なのでした。(笑)


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